[#表紙(img/表紙.jpg)] 中世の食卓から 石井美樹子 目 次[#「目 次」はゴシック体]  序にかえて ローストビーフとフォアグラ  おどけ者ジャック・プディング  うなぎとイギリス史  豚と王子様と惣菜屋  スパイスは食卓の王様  にしんは魚の王様  オムレツとプリンが戻ってくる日  饗宴と精進潔斎  羊飼いの饗宴  豆とスプーンと北斗七星  甘美なものには手で触れるべし ナイフとフォークの話  手洗いの儀式と汚れた手  チーズと道化  果物の王様、オレンジとレモン  りんごの花びら  女王様と爪楊枝  サラダ泥棒  愛の妙薬  寝取られ亭主と梨とさくらんぼ  お菓子とビールとエール  ティファニーで朝食を  ふとった王様とやせた子ども   あとがき   アダムのりんご(文庫版に寄せて) [#改ページ]   序にかえて ローストビーフとフォアグラ  世に隠れたベストセラーは多い。だが、つねに玉座を占めてきたのは聖書だといわれている。書評欄の話題になることは少なくとも、隠れたベストセラーという点で、聖書に匹敵するのは、おそらく料理の本ではあるまいか。書棚にひっそりと並ぶ文芸書や学術書にくらべて、どこの書店でも料理の本をあつかうフロアは広く、書棚は華々しくあでやかだ。文芸書の読者の好みは勝手気ままで移り気だから、売れる本を予測するのは至難のわざだ。だが、おいしいものを求めるのは万国共通、いつの世も変わらぬ人間の本能ゆえに、料理の本にはつねに一定の需要がある。十九世紀のイギリスの詩人バイロン卿が、ベストセラーの自著『チャイルド・ハロルド』と肩をならべて売れているのが料理の本と聞いて嘆いたのは、有名な話だ。その料理の本というのがなかなかの食わせ物。人間の胃袋を満たすというまことにこの世的な使命をおびつつ、不思議な力を持つ魔術師なのだ。かしこまったもっともらしい能書きで人の欲望を刺激し夢を無限にふくらませはしても、それを満たすことはけっしてしない。あの手、この手で永遠に人を引きつけるすべを知っている。  聖書と料理の本。ともにベストセラーの冠を戴いてはいるが、この両雄ほどきわだった対照をなす本もない。片方が魂を養う糧《かて》にかかわるなら、もう一方は肉体を養うための本。人はパンのみにて生きるにあらず、されど、パンなくして生きることあたわじ、というわけなのだろう。じつに見事なハレとケのスペクトラムではないか。これもまた、この世でのはかない命をせいいっぱい生きるために、人間が開発した知恵なのだろう。  料理の本の歴史は聖書ほど古くはない。現存する最古の料理の本は、紀元前一—後二世紀のあいだにローマのアピキウスによって編纂されたといわれる『ローマ式料理法』。この間のローマ史をひもとくと、数人のアピキウスが浮かびあがってくる。ジュリアス・シーザーの時代にも、アウグストゥスの時代にも、ティベリウスの時代にも、そしてトラヤヌスの時代にもアピキウスと名のり、かつ料理とかかわった者がいる。『ローマ式料理法』を編纂したアピキウスなる者は誰なのか。限定するのはむずかしい。『ローマ式料理法』は、四世紀末と五世紀の初めとに書かれたと思われるラテン語の二つの写本をとおして中世に伝えられた。さらに、九世紀にフランスのトゥールとドイツのフルダで写されたものにもとづく刊本が中世後期に印刷され、今日まで受け継がれている。近年、『ローマ式料理本』と題して出版されており('The Roman Cookery Book', trans. B. Flower and E. Rosenbaum, London, 1974 ; 'The Roman Cookery of Apicius : Translated and Adapted for the Modern Kitchen' by John Edwards, London, 1985)、目にとめた好事家もおられるかもしれない。次に古いのが、シャルル五世の厨房から生まれた、フランス王室初の料理の本、ギヨーム・ティレル、別名タイユバン著『ル・ヴィアンディエ』('Le Viandier', 一三七五年頃。viande は食べ物という意味)。それからほどなくして、イギリスの王室からも料理の本が出されている。リチャード二世の料理長が書いた『料理の形式』('The Form of Cury' [Cookery], 一三九〇年頃)。それからほぼ百年後の一四八二年に、ニュールンベルグで出版された『クーヘンマイステリー』('K歡henmeisterei') は、その世紀のうちに八刷になったといわれており、人気のほどがしのばれる。中世のイギリス料理を知るには、十五世紀の手稿から編纂された『十五世紀の料理の本』('Two Fifteenth Century Cookery Books', ed. T. Austin, London, EETS, rpt., 1988) が参考になる。 『料理の形式』や『十五世紀の料理の本』に掲載されている料理のほとんどは、タイユバンの『ル・ヴィアンディエ』の変形であり、フランスとイギリスの上流階級の食卓に大きなちがいはなく、ことなった嗜好は見られない。西ヨーロッパを通じて、ナポリのアンジュー王家から派生した共通のレシピがあったということだ。共通のレシピによって共通の調理法で料理されたものが、共通のスタイルによって供給されていたものと思われる。  中世の料理の本を一瞥して驚くのは、料理の色彩のあざやかさと調理法の複雑さ、そして強靱な胃袋をうかがわせる巨大な分量である。たとえば、肉類はゆでてから焙り焼く。焙り焼くまえにゆでたのでは、肝心の肉汁がゆで汁のなかに流れでてしまう。だが、焼いただけの肉を食べるのは野蛮人だと信じていた人びとにとっては、ゆでることこそ洗練された調理法だったのだ。さらに、ゆでたものを焼きあげれば、洗練度は増す。材料の風味やエッセンスをすくいあげ、その持ち味を生かすというアイデアが生まれるまでには、まだ長い時の経過を必要とした。 [#挿絵(img/fig1.jpg)]  実際には、どのようなものを食べていたのだろうか。ゆで肉をグリルするかローストしただけの素朴な味つけの肉が主役で、それに、メード・ディッシュという、肉、野菜、スパイスなどをとりあわせ、グレイヴィをかけた料理が一般的だった。肉の量にちがいはあっても、貴族から農民まで同じようなものを食べていた。貴族の宴会料理にも、こまやかな洗練された味への嗜好はみられず、とにかく量を誇るメニューとなっている。宴の食卓には、高価で珍奇な材料を手間ひまかけて料理したごちそうが山と積まれていなければならなかった。このような食の伝統と行為は、中世・ルネッサンスから十八世紀までほとんど変わらない。  イギリス料理のまずさには定評があり、イギリスというと、ローストビーフを思いだす。いっぽうのフランスのお国自慢は、フォアグラ。この歴然とした国民色は、どこから生まれたのだろうか。『食卓の歴史』の著者スティーブン・メネルによると、中世の一般的な肉料理、ローストビーフがイギリスを代表する国民的な料理になったのは、イギリスの宮廷に、中世から大きく逸脱するような料理術が発達しなかったためである。いっぽう、フランス人は、料理における嗜好の変化を自覚し、料理の美学とでもいえるものを浮上させ、宮廷を中心に、味のこまやかさを誇る調理法を発達させたという。  フランスの貴族社会は、宮廷の厨房をまねて、十七世紀以降、中世のレシピにとらわれない、フランス独特の料理のスタイルを開発するようになる。大量の肉の消費と、金《きん》よりも高価だったといわれるスパイスの大量の使用は、かつては中世貴族のステイタス・シンボルだった。だが、こまやかな味が好まれるとなると、強い風味を持つスパイスは敬遠される。かわって、ありふれたハーブが脚光をあびる。焼いただけの肉にかわり、肉の塊をスープのなかでゆっくり煮込む料理が流行する。肉や魚の持ち味を殺すことなく外から風味を浸透させる方法である。中世の料理とあまり結びつけられることのなかったバターや乳製品が多く用いられるようになる。「並みはずれた肉の山」、「様々なスパイスのごちゃまぜ」、「ローストビーフの山」などは、ステイタス・シンボルどころか、やぼったい食の習慣に転落しはてる。かくして、優雅で、節度があり、材料の風味やエッセンスを活かした繊細な食べ物が、上流階級の優位性をあらわすものとなる。  中世の料理が田舎くさい下品なものだということになると、貴族にならえとばかり新興のブルジョワ階級がこぞってエリートが好む最新式の料理を採用するようになる。しばらくすると、新たな階級が興り、これに追いうちをかける。このような「下からの圧力」によって、洗練された食べ物への傾向は加速されていった。イギリスでは、食べ物に関するこのような階級間のダイナミックな競争はついにおこらず、あいかわらず、オーブンで焼いただけのローストビーフがごちそうでありつづけた。とすると、イギリス人の味覚も中世からかけ離れることはなかったのではないだろうか。イギリス人が、「スペインに旅をしたけれど、料理のまずさには閉口した」などといっているのを聞いたりすると、そんな風に思えてくる。  フランスにおける食物の嗜好の新しい流れは、十八世紀のある料理本の前書きにもはっきりと読みとれる。「多様性ほど人間を喜ばせるものはない。そして特にフランス人は、それを特別に偏好している。だから、調理しているものをできるだけ多様にし、味も見かけも他と違うものにしなければならない。ポタージュ[#「ポタージュ」に傍点]・ドゥ[#「ドゥ」に傍点]・サンテ[#「サンテ」に傍点](健康のポタージュ)を、ブルジョワのポタージュとしよう。よく選んだ上等の肉で濃厚にし、それから、ブイヨン[#「ブイヨン」に傍点]にまで煮つめる。切った野菜や、マッシュルーム、スパイス、その他いかなる材料も加えずに、簡素にしよう。『健康』という形容がついているのだから」(『食卓の歴史』北代美和子訳)。料理文化の差異は、国家間よりも、社会階層のあいだで発達していったというメネルの主張は、「食べものの好き嫌いは純粋に個人的なものだ」とか、「味覚に論争の余地はない」といった既成の概念をものの見事に粉砕してみせる。  人間は何を食べるかだけでなく、どのように調理すべきかについても敏感なものだ。たかが料理の本。されど、料理の本。まさに、料理法は、国家、社会階級、宗教集団のアイデンティティを意識させるものだ。調理の歴史には、かくもダイナミックな社会的動因が隠されている。 [#改ページ]   おどけ者ジャック・プディング  イギリス料理の王者といったら、何といってもヨークシャープディングの添えられたローストビーフであろう。とくに、塩味のカップケーキといったヨークシャープディングは、中世から今日まで、主食といってもいいほどあらゆる階層の人たちに愛され、イギリス人の食卓にはなくてはならない料理である。塩味のプディングのほかに、果実入りのさまざまなプディングがある。 「イギリス人を喜ばせ、安心させるには、プディングと牛肉をあてがっておけばいい」という、いいまわしがある。プディングと牛肉は、何世紀ものあいだ、平均的イギリス人をあらわすことばとなっていた。それだけに、プディングに関するいいまわしは、すこぶる多い。十八世紀の風刺作家、ジョン・アーバスノットは、皮肉な口調で、プディングこそイギリス史の主人公だといっている。たとえば、ヨークシャーのヨッホディル地方の人びとは、「害のないプディング」という名を頂戴していた。彼らがのろまだということが、ユーモラスにほのめかされているのだ。「プディングの時間」は、待ち遠しい時間のこと。「プディングのとげ」は、価値のないもののこと。「プディングのようにぴったり」は、きわめて適当な(ふさわしい)という意味である。「ほめことばよりは、プディング」は、花よりだんご。「プディングの証拠は食べてみてから」は、論より証拠。「あなたをプディングのように愛する」は、食べてしまいたいくらい愛しているという意味。「プディングのおせじ」は、なかみのないおせじのこと。「プディングの酒」とは、安酒のこと。「プディングの顔」は、大きくてふっくらした顔のことをいう。「プディングの頭」とは、ばかな人。「プディングの心臓」とは、弱虫を皮肉るいいまわし。  十七世紀のイギリス人は、彼らが愛してやまないプディングの名を、祭りの広場のおどけ者たちに与えている。焼き網のうえでふくれたり、飛んだりはねたり、ころげ回ったりするプディングが、おどけものたちに似ていたのであろう。いや、それよりも、食べてしまいたいくらい可愛い道化を食べ物の名前で呼ぶとしたら、大好物のプディング以外になかったのかもしれない。  世界中どこへいっても、おどけ者のいない国はない。どこの国にも、おどけ者の一団がいて、庶民を楽しませている。人びとは、おどけ者たちを愛するあまり、食べてもいいとさえ思っている。どこの国でも人びとは、おどけ者たちを、彼らが一番好きな料理名で呼んでいる。たとえば、オランダでは「塩漬けにしん」、フランスでは「ジャン・ポタージュ」、イタリアでは「マカロニ」、そして、イギリスでは「ジャック・プディング」だ。  イギリスのおどけ者たちが、みな、もともとジャック・プディングと呼ばれていたわけではない。十七世紀以前には、おどけ者の総称は、フール(fool) だった。今でこそ、フールという言葉は、「ばか」とか、「あほう」とかいう意味で使われることが多い。だが、フールは、単なる悪口言葉ではない。生まれつきのあほうと、そのあほうを真似て、日々の糧を稼ぐ道化師のことを指した。 「道化以外は、みな阿呆」(All but the Fool were fools) と、ほこらしげに言ったのは、エリザベス朝の有名な道化役者のロバート・アーミンだった。劇場の道化役者であろうと、大道芸人であろうと、宮廷道化であろうと、道化師たちは、ふざけやおどけのほかにも、何をいってもとがめられないという特権を与えられていた。エリザベス朝時代には、この特権をフルにいかし、機知と風刺をまじえて、人間や社会についての鋭い観察を放つ道化が全盛を誇った。エリザベス女王の宮廷道化師だったアーミンもそのひとり。このような才能にめぐまれた道化たちは、「苦い道化」とか「辛辣な道化」とか「賢い道化」と呼ばれ、一目おかれていた。  聖パウロは、キリスト教徒を、神の計画のために用いられる愚か者と見なしている。自然人の無垢さこそ、キリストが身をもってあらわした愚かさに通じると考えていたからだ。中世の人びとは聖パウロの教えを信じ、愚かな者こそ神に近いと考えていた。  だが、時代とともに、ことばの意味も変化する。議会派と王党派とが、激しい政治論争をくりひろげた十七世紀イギリスでは、「フール」は、相手の無能力を攻撃するための格好の武器となった。あるおどけ者の嘆きに耳を傾けてみよう。 [#ここから1字下げ]  ……あの賢明なるお人たちがあんな命令を出して以来、  道化は、特別のお計らいのある時しか、おしゃべりができなくなっちまった。  おれたちゃ、ただ従うだけ、そうできればね。  委員たちに言葉をやっちまったんだから。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](サンドラ・ビリントン『道化の社会史—イギリス民衆のなかの実像』石井美樹子訳)  いまや、フールということばは神通力を失い、それだけでは道化《フール》を説明することはできなくなった。愛する道化の名、フールを、政治にうつつをぬかす馬鹿者たちに奪われた庶民の怒りもまた、想像にあまりある。道化と政治家をいっしょにされたのでは、たまったものではない。フールという名前なんぞ、けちな政治家にやっちまえ! そういったかどうか知らないが、フールという名が、しばらく祭りの広場から姿を消す。かわって登場してきたのが、ジャック・プディングだった。  さて、イギリスの町や村の祭りの広場には、ジャック・プディングのほかにも、ザニーやメリー・アンドルーというおどけ者たちもいた。ザニーは、イタリアのザンニのイギリス版。へまばかりしている下僕風のひょうきん者である。メリー・アンドルーは、ジャック・プディングの兄貴分といったところ。そのほかにも、イタリアからやってきたハーレクィンという道化もいた。名前はちがっても、彼らの役割はたいして変わらない。  シェイクスピアと同時代の劇作家に、クリストファー・マーローがいる。十七世紀の終わり頃に、マーローの作品『ファウスト博士』をもじった『ファウスト博士の生と死』という茶番劇があらわれた。作者は、ウィリアム・マウントフォート。この作品に登場する道化は、次のように告白している。「あたしゃ、あわれなハーレクィン。学のある人からは、ザニーと呼ばれてはいるけれど。でも、田舎っぺはおいらを、ジャック・プディングと呼ぶ」。  のちに、メリー・アンドルーの衣装もジャック・プディングの衣装も、見分けがつかなくなる。ともに、田舎者風の粗末な服を着るようになったからだ。だが、十八世紀の中頃まで、ジャック・プディングはまだら模様に鈴つきの、伝統的な道化服を着ていた。彼の役割は、主人の薬売りのために客引きをし、主人といっしょに、道化ショーをくりひろげることだった。「道化のいない薬売りなんて、あわれなものよ」といわれたくらいだから、薬売りに、道化はなくてはならない存在だった。十七世紀の風刺作家のサミュエル・バトラーは、『人さまざま』のなかで、この二人組について、こう書いている。 [#2字下げ] プディングはいわば、薬売りに仕えるセッター犬だ。薬売りが着ているのは紫色の短い上着だが、その上着でプディングでないことがわかる。プディングのほうは、道化帽をかぶっているために、薬売りではないことがわかる。  薬売りといっても、この場合は、いかさま薬売りのことである。彼らは、にせの薬を売りつけたり、医者のふりをして奇跡の治療をほどこしたりして、祭りの広場から広場へと渡り歩いた。だが、本業は、おどけショーの芸人だった。  薬売りに仕えるジャック・プディングのおはこは、おどけたアクロバットを演じることだった。だが、本領は主人をコケにすることにある。主人が薬の宣伝をはじめると、ジャックは、すかさずいう。「健康このうえなく、ほがらか、かつ冷静で、そのうえ、医者のあほうにお金を無駄遣いしたい人は、どうぞお買いください。おいらが、そのあほうでござんす」。医者は戦術を変え、薬の包みのなかに金の指輪が入っているかもしれないという。すると、ジャックがすかさずいう。「そんなら、じぶんで薬を買うがいい」。 [#挿絵(img/fig2.jpg)]  次は、南イギリスのウエストン・サベッジ村に伝わる劇から。医者が道化に馬を押さえているようにと命令しているところ。ジャックが主人にたずねる。 [#ここから2字下げ] ジャック[#「ジャック」はゴシック体] こいつ、噛みつきますか。 医者[#「医者」はゴシック体] いや。 ジャック[#「ジャック」はゴシック体] こいつ、けりますかね。 医者[#「医者」はゴシック体] いや。 ジャック[#「ジャック」はゴシック体] 押さえとくのに、曳綱がいるんじゃないですか? 医者[#「医者」はゴシック体] いや。 ジャック[#「ジャック」はゴシック体] そんなら、自分で押さえていりゃいい。 [#ここで字下げ終わり]  次は、シュロップシャーで一八二〇年に刊行された、子どもむけの定期刊行物から。 [#ここから2字下げ] 医者[#「医者」はゴシック体] なぜ、おまえは薬を飲まんのだ。 アンドルー[#「アンドルー」はゴシック体] いや、ときどき飲んでます。 医者[#「医者」はゴシック体] どんな薬だ? アンドルー[#「アンドルー」はゴシック体] どんな薬でも。 医者[#「医者」はゴシック体] それでどうやって飲むんだ。 アンドルー[#「アンドルー」はゴシック体] 飲むんですよ……それで棚の上に置きます。そして、また具合が悪くなったら、棚からおろして、すんばらしく強い酒と一緒に飲むんでさあ。 [#ここで字下げ終わり]  フールという名を奪われても、イギリスの道化たちは、ジャック・プディングと名を変え、したたかに生きていった。彼らの名が祭りの広場から消えるのは、十九世紀に、イギリスの町や村で、祭りの風習がすたれていったときであった。だが、サーカスの道化師や、ハリウッドのサイレント映画を彩る道化のペアや、ヴォードヴィルの喜劇チームのなかに、ひいては、ベケットの『ゴドーを待ちながら』のような現代劇のなかに、いかさま薬売りとジャック・プディングは、依然としてその姿をとどめている。 [#改ページ]   うなぎとイギリス史  うなぎの蒲焼きは、スキヤキ、てんぷら、寿司にならんで、日本料理の横綱だ。うなぎ料理が好きなのは日本人ばかりだと思っていたら、日本人を上まわるうなぎ好きがいた。中世のヨーロッパ人である。中世の文学や料理の本を読んでいて、うなぎの登場回数の多さに驚く。この点でうなぎと渡りあえるのは、にしんぐらいなものだ。  十三世紀中頃フランスで書かれた寓話詩『狐物語』の主人公、ずる賢い狐のルナールが飢えに迫られて川で釣るのはいつもうなぎである。ルナールは川で釣りあげたうなぎをそのまま食べたであろうが、当時の人びとが好んだのはサラジネといって、油で揚げたうなぎにパン、砂糖、ワインなどを混ぜあわせて煮込み、シナモン、ラヴェンダー、クローヴなどのスパイスを加えたうなぎ料理だった。また、うなぎを細かくたたいたものに、赤ワインとシナモンで味つけしたさっぱりした風味のソースや、パン、シナモン、ショウガ、赤ワインなどを混ぜあわせたどろりとしたソースをかけて食べる料理もあった。  中世の食卓に姿をあらわす頻度では、うなぎとにしんの右に出るものはいない。それだけに、妬まれもし、うとまれもした。  太鼓腹を突きだし、酒瓶片手にロンドンのチープサイドをうろつくシェイクスピアのフォールスタッフはやせた人間が大嫌い。ヘンリー王子に「助平で脂ぎった大樽め」と悪態をつかれると、すかさずいう。「なんだと、ちくしょう、飢え死にしかけた餓鬼めが、ヒョロヒョロうなぎのぬけがら野郎」(『ヘンリー四世第一部』二幕四場)。その名のとおり、やせっぽちの地方判事シャロー(浅はかという意味)は「服を着たままうなぎの皮に詰めこめそうだ」と悪口をいわれている(『ヘンリー四世第二部』三幕二場)。うさん臭い僧侶はうなぎにたとえられてもいる。「かしこに鰻《うなぎ》一匹、この館《やかた》に身をば潜めたり。(近寄りて眺むれば)その頭巾の奥底には、大いなる汚穢《けがれ》の見ゆるは必定ならむ」(フランソワ・ラブレー『ガルガンチュワ物語』渡辺一夫訳)。  にしんもまた、槍玉にあげられている。フォールスタッフは、やせっぽちを評して、「卵を生んだあとのやせにしん」ともいっている(『ヘンリー四世第一部』二幕四場)。「ちくしょう、塩漬けにしんめ!」とわめくのは、アル中寸前の『十二夜』のサー・トービーだ。こうしたいいまわしからは、うなぎやにしんにたいする人びとの愛憎が感じられる。 「もしも」ということは、歴史にはゆるされない。しかし、もしも、この世にうなぎ料理というものがなかったなら、イギリス史はずいぶんと変わったものになっていただろう。ヘンリー二世(在位一一五四—一一八九年)からリチャード三世(在位一四八三—一四八五年)まで、三百三十年あまりに亘るプランタジネット王朝も存在しなかったのではないだろうか。  中世を通じてヨーロッパを舞台に縦横の活躍をしたノルマン人がイングランドを征服し、かの地にノルマン王朝を開いたのは、一〇六六年のことであった。このときの征服王はノルマンディ公ウィリアム。ウィリアムの死後、王位は第二子ウィリアム・ルファス、第四子ヘンリー一世へと引き継がれていく。だが、ヘンリー一世が一一三五年に亡くなると、イングランドは、血族同士が相争う長い内戦に突入する。ヘンリー王は娘のマティルダを後継者に指名したのだが、征服王ウィリアムの孫スティーヴンがいち早く英仏海峡を渡り、イングランドの王冠を横取りしてしまったのだ。そのために、マティルダとスティーヴンを擁する両陣営の戦いが起こった。スティーヴンは征服王の娘アデラの子で、マティルダには従兄弟にあたった。遅れをとったマティルダではあったが、彼女のほうも負けてはいない。アンジュー伯とのあいだにもうけたヘンリーを擁して猛反撃を加えた。  内乱がそろそろ二十年目に入ろうとするころ、逞しい青年に成長したヘンリーが大軍を率いて初めてイングランドに進攻していく。サウザンプトンに上陸したヘンリーは猛スピードでロンドンめざして北上し、迎え撃つスティーヴンとテムズ川を挟んで睨みあう。だが、両陣営とも、連日激しく降る雨で水かさを増した川を渡ることができない。まもなく、スティーヴンはあきらめてロンドンへ引き返す。それを見たヘンリーは、近くの城にたてこもっていた敵側の一隊を撃ち破った。  この敗北は、老スティーヴンの身によほどこたえたらしい。さらなる猛攻撃を恐れたスティーヴンは、和睦を申し出る。敗北の形勢での和睦は、どうしても不利になる。スティーヴンの後継者である息子、ユースタスは和睦に真っ向から反対し、和睦を推進したカンタベリー大司教の領地ベリー・セント・エドマンズに乗り込むと、大司教の館はもちろんのこと、教会、民家、農家の別なくことごとく掠奪し、焼き払った。戦勝気分に酔いながら、その晩ユースタスは、うなぎ料理を食した。ところが、翌日、ユースタスは突然、息をひきとった。原因はうなぎによる中毒死だった。ユースタスを失ったスティーヴンはヘンリーを後継者と定め、こうして内戦は急転直下、終局を迎えることになる。ヘンリーが、ヘンリー二世としてイングランドの王冠を頭上に戴いたのは、翌年の一一五四年十二月十九日のことであった。  ベリー・セント・エドマンズは、大学町で知られるケンブリッジから西方四十キロほどの、国道四十五号線ぞいの町である。昔は、この町の近くを流れるリトル・ウーズ川や、ケンブリッジを横切るケム川ではうなぎがだいぶ獲れたらしい。このあたりのファーストフードの店ではいまでも、揚げたタラといっしょに、揚げたうなぎを売っている。ケンブリッジ近くのケム川ぞいの門前町イーリーは、イール(eel)、つまり「うなぎ」にちなんで名づけられたという。  美食家だったユースタスは、「大仕事」を終えて、土地の名物うなぎ料理を食した。これが彼の命とりになった。彼が食べたのは、どんなうなぎ料理だったのだろう。篠田一士の『グルメのための文藝読本』を読んでいて、うなぎを食べすぎて命を落とした教皇がいることを知って驚いた。ダンテの『神曲』にも登場するマルティヌス四世(在位一二八一—八五年)で、彼の命を奪ったのは、牛乳漬のうなぎを白ぶどう酒で煮込んだシチューだったという。ダンテの観察によれば、死んでから煉獄に堕ちた教皇の顔は、他の罪人たちよりも一段と凋んでいたという。張りのある肌を保つためには、うなぎといえども、食べすぎてはいけないのだ。  ユースタスが美食ゆえに身を滅ぼした一方の勇者なら、それで王冠を手にしたヘンリー二世は、さしずめ「粗食」ゆえに身を滅ぼしたくちであろう。  ヘンリー二世はカンタベリー大司教トーマス・ベケットを殺害させたことで知られているが、ヘンリー二世の食卓のつましさもまた、イギリス史上特筆すべきものであった。側近の一人、ブロワのピーターは、山海の珍味と上等のワインで客をもてなす大法官時代のベケット家の大盤振舞いぶりを述べたあと、嘆息まじりにこういっている。「われわれの宮廷の役人や騎士たちは、よく発酵していなくて、生焼けの鉛のように固い大麦のパンを食べている。そして、どろっとしていて悪臭を放つ、香りのない酸っぱい葡萄酒を飲んでいる。ある日、さる身分の高いおかたの前に、この葡萄酒が出された。そのかたは目をつぶり、歯をガチガチいわせながら葡萄酒を喉に流しこんだ。顔は恐怖のためにゆがんでいた。宮廷のビールときたら、見た目にもぞっとするようなひどい代物だ。食肉用の家畜は、健康であろうと病気にかかっていようと、おかまいなしに買入れられる。魚は四日は経ち、腐っていて悪臭を放っている。そんなものを買うのは金をドブに捨てるようなものだ」。  これではいきおい、大法官邸に人が集まるというもの。ヘンリー自身、嘆きの声をあげる。「ベケットの館が宮殿を空にしてしまった」。  その後、ヘンリーは教会の裁判権をめぐってベケットと対立し、ついには彼を死にいたらしめたのだが、そもそもの確執の源は、両者のこのようなライフ・スタイルのちがいにあったのかもしれない。 「さる身分の高いおかた」とは、ヘンリーの妃エレアノールだといわれている。エレアノールはフランス一富裕なアキテーヌ公爵家の出で、地味豊かな南フランスの土地に育っただけに、金に糸目をつけずに食卓にごちそうを並べるくちだった。のちに、ヘンリーとエレアノールは別居生活に入るのだが、ピーターの証言などを聞いていると、嗜好のちがいも破局の一因だったのではないかと思えてくる。  自分は上等のものを食べても客にはケチる人がいる。ヘンリーの名誉のためにいっておくが、ヘンリーはこのたぐいの人種には入らない。ヘンリー自身も常日ごろ「腐った肉と魚」を食べていたのである。彼は食にはほとんど関心のない、胃袋を満たせばそれで満足する男だった。それに、英仏海峡を挟んで二つの国にまたがる広大な領土を統治するために、絶えず動き回らなければならなかったから、食事を楽しむゆとりなどなかった。ブロワのピーターはまたこうも証言している。王は馬に乗っているときか食事をしているとき以外は、けっして腰をおろさず、また眠っているとき以外は動くのをやめず、その眠りもめったにとらなかった、と。  ただ、ヘンリーは美食家ではなかったが、大食漢だった。腐った肉や魚といえども大量に食らえば、キリスト教でいう「七つの大罪源」のひとつ、大食の罪を犯すことになる。この罪の効果が晩年のヘンリーにはよくあらわれていた。長年の食生活の慣習は、彼の肉体を巨大なまでにふくらませた。巨大な腹を突きだして、びっこをひきひき相も変わらず動きまわるヘンリーには、ブロンドの髪をなびかせ、旌旗《せいき》を掲げてイングランドに進攻していった頃の、アンジュー家の若き獅子の面影はひとかけらもなかった。  このような父に対して、息子たちが次々と反抗ののろしをあげた。ついに最愛の末っ子ジョンにも裏切られたヘンリーは病の床にふし、五十六歳の生涯を閉じる。息子たちを陰で操っていたのは、王妃エレアノールであった。げに恐ろしきは、やはり食べ物の恨みである。 [#改ページ]   豚と王子様と惣菜屋  アンジュー家のプランタジネット王朝を成立させたのがうなぎだったとしたら、フランスのカペー王朝の運命を狂わせ、半世紀以上もアンジュー家に翻弄される羽目に陥らせたのは、一匹の豚だったといえる。  アンジュー家の若きプリンス、ヘンリーが、元神聖ローマ帝国皇妃の母マティルダに帝王学をしこまれているとき、フランスの宮廷でも、皇太子フィリップが、フランス王になるための教育を受けていた。フィリップは闊達で武芸に秀で、まさに王になるべく生まれついたような少年だった。  一一三一年の十月も終わろうとする頃、フィリップ王子と従者の一行は、馬に乗ってセーヌ河岸のグレーヴ広場を通り過ぎようとしていた。そのとき突然、雌豚があらわれ、フィリップの馬めがけて突進してくる。馬は雌豚の足にからんでつまずき、首越しに王子を地面に振り落としてしまった。路上に思いっきり叩きつけられた王子は意識を失う。近くの民家に急いで運ばれ、手厚い看護を受けたものの、意識を回復しないまま、翌朝息を引きとった。フィリップにかわって王位継承者となったのは、十歳になる弟のルイ王子である。  ルイは、当時の王侯貴族の次男以下の多くの男子の例にもれず、僧侶となるべく修道院で育てられており、祈りと修行にあけくれる日々をおくっていた。色白で細面のルイは、騎士の鑑のような兄とは対照的に、口数が少なく、思索と読書が何よりの趣味というもの静かな少年だった。しばらくして、父王はルイの花嫁として、南フランス生まれの陽気で明るい美少女、アキテーヌ公爵家のエレアノールを選ぶ。僧侶のような花婿と、自由奔放、歌や音楽に人生の喜びを見いだす花嫁との結婚生活は、はじめから波瀾をふくんでいた。十五年後、この結婚は破局を迎える。エレアノールはルイを捨てて、十一歳下のアンジュー家のヘンリーのもとに奔る。ヘンリーは、「祈る人」のルイとは正反対の、まさに戦う戦士であった。がっしりとした体格に、太い腕、厚みのある胸、ごつごつした手。聖地の最前線で異教徒と戦う騎士団の騎士のように大胆不敵で勇猛果敢、野性味あふれる青年だった。新しい結婚により、フランス王家の数倍はある莫大なエレアノールの資産は、そっくりアンジュー家に移管され、イギリスとフランスの勢力地図は一挙に塗りかえられる。しばらくしてヘンリーはヘンリー二世としてイギリスの王冠を戴き、ここに、プランタジネット王朝が誕生する。ヘンリーは、広大な領土をバックにヨーロッパ一の帝国を築きあげる。  もしも、豚がカペー家のフィリップ王子の前にあらわれなかったら、そしてフィリップ王子が早世しなかったら、中世ヨーロッパの地図はどうなっていただろう。フィリップが豚につまずいて命を落とさなかったら、エレアノールはフィリップと結ばれていたはずだ。ヘンリーに優るとも劣らない優れた騎士のフィリップとの結婚生活は、エレアノールの望みどおりのものであったろうから、彼女がカペー家の後継者のもとを去るような事態は生じなかったのではないだろうか。フランスとイギリスの三百年にもおよぶ長い確執の時代は、エレアノールがルイを捨てて、ヘンリーのもとに奔ったことに端を発するとされている。エレアノールがフィリップを夫としていたら、この長い確執の歴史も、歴史の年表に姿を見せることはなかったはずだ。それに、イギリス人が、フランス人を「かえる野郎」といって軽蔑する文化摩擦(イギリス人は、かえるを食するフランス人を軽蔑する傾向がある。また、フランスのある車の型がかえるに似ていることから、このように呼ぶこともある)も、ヨーロッパの主要な二大大国が英仏海峡を挟んでいがみあうゆゆしき事態も生じなかったであろう。それに、これから述べる食物に関する一大異変など起ころうはずもなかったのだ。  すべての不幸は一匹の雌豚から始まった。当時の豚はいまの豚のように優しいぽっちゃり型ではなかったことはつけ加えておこう。先祖の猪とほとんど変わらず、体ががっしりしていて、足が長く、牙を持ち、黒褐色の剛毛で覆われていた。力が強く猛々しく、無鉄砲に突進するから、狼でさえ恐れたという。フィリップ王子の馬がひるんだのも無理はない。  パリという大都会の真ん中に、なぜ豚が突然姿を見せたのか。当時はパリ全体が「豚小屋」だったといったら、驚く人は多いだろう。そう、豚はパリの街をすみかとして生きていた。花の都は、かつては豚の町だったのだ。トイレや生ゴミ入れを備えた家が皆無であった時代、生ゴミも汚物もみな通りに捨てられた。そこへ、豚が「清掃車」となって出動し、片はしから人間にとって不用となったものを平らげていった。ゴミ処理のコストはゼロ、おまけに豚はまるまるとふとって食卓にのぼってくる。じつに見事な需要と供給のバランスではあるまいか。生きた「清掃車」は、かくも法外な利益をコミュニティにもたらした。 [#挿絵(img/fig3.jpg)] [#地付き](『イザヤ書』六六・一七)  心理学者のエーリッヒ・ノイマンの説明に耳を傾けてみよう。「豚の肉を食べることが禁止されているところではどこでも、また豚が不浄だとされるところでも、豚が本来宗教的性格も持っていたことは確実である。豚がシンボル体系の中で多産および性と結びついていたことのなごりは、現代の言葉にも認められ、われわれは性的な事柄を否定的な意味で『卑猥なこと』Schweinereien[豚のようなこと]と呼ぶのである」(『意識の起源史』林道義訳)。かくして、「ブタ」は不潔、下品をあらわし、厚顔無恥な人間に対する悪口にまでなりさがる。  だが、背に腹はかえられない。豚にはさまざまな用途があったし、何といっても、飼料代も飼育の手間もかからず、とにかく安かったのだ。ということで、キリスト教徒は豚を食べ続けた。豚の需要が低下することはなかった。とはいえ、庶民が、法を犯してまでも豚を街で飼いたがったのはなぜか。豚が城壁からうんと離れた場所で飼われることになって以来、食料事情に一大経済異変が生じてしまったからなのである。  先のお触れのために、豚をおおっぴらに街なかで飼うことはできなくなり、当然自家飼育者の数は激減した。遠くの郊外で育てられた豚は丸ごと生きたまま、あるいは肉にされて市場に運ばれてくることになる。こうして、養豚業者の成立を見る。飼育費と運搬賃を上乗せした肉の値段は当然、自家飼育の豚肉よりぐっと高くなり、おまけに鮮度も落ちる。生きたまま連れてこられたとしても、事態は少しも変わらない。連れてこられた豚はすぐに処理され、調理場に送られた。だが、小一時間も歩かされて町の市場にやってきた、腹をすかした豚は、自家飼育の豚にくらべて肉は固く、味はぐんと落ちる。古今東西、「豚はふとらせて殺せ」というのは鉄則なのだ。  豚が市場で売り買いされるようになってからは、腐った肉が以前よりも頻繁に出回るようになる。腐った肉の売買は、法律で固く禁じられていた。違反者は、立てた板の穴に首と両手を固定するさらし台に架けられた。だが、腐った肉が格段に安く、手に入りやすいとあっては、軽い財布をかかえた主婦がそれに飛びつくのを防ぐことはできなかった。主婦たちは腐った肉の臭いと味をスパイスでごまかし、ひそかに食卓にのせた。ヘンリー二世の秘書を務めたブロワのピーターの証言によると、法律を執行する側の王家の食卓にさえ「腐った肉」がしばしば登場したという。  腐った肉はスパイスの需要を一気に高める。また、新鮮でおいしく、しかも安い肉が手に入りにくいとなると、今でいうハンバーガーやポークパイ、詰めもの肉などの凝った料理が流行する。スパイスのきいたミートボールはことのほか庶民に好まれたようだ。一番人気があったのは、「りんごのように丸くした」挽き肉に、小麦粉、砂糖、アーモンド・ミルクをまぜたこね粉をまぶして、鉄の串に刺して焼いたミートボールだった。また、新鮮な肉にかわって、ベーコン、ソーセージ、ハム、塩漬け肉といった加工肉も人気者となる。おおかたの家庭の台所は焼いたり煮たりする以外に、大掛かりな設備を備えていなかったから、加工肉への需要は今でいう「ファーストフーズ」の店の出現をうながす。ロンドンでは十二世紀の末には、すでにこのような店があらわれていた。  カンタベリー大司教トーマス・ベケットの助祭で、ベケットの伝記も書いているウィリアム・フィッツスティーヴンが、テムズ川の堤の上に設営された惣菜屋の様子を伝えている。「季節によっていろいろな店がテムズ川の堤の上に立ちならぶ。焼き肉、揚げた肉、ゆで肉、大小の魚、貧乏人用の固い肉に金持ち用の柔らかい肉、鹿だって鳥だってならんでいる。突然家にお客が来ても、材料を買いに出て、料理し、旅で疲れたお客を待たせる必要はない。テムズ川の堤に飛んでいけば、何でも手に入るのだから」(William Fitzstephen, 'The Life and Death of Thomas Becket', trans. G. Greenaway, London, 1961)。完全に調理されたのもあれば、温めたり、オーヴンに放り込むだけで食べられる半完成品もあった。十三世紀には、パリにもこのような惣菜屋が出現していたようだ。  ところで、このような店で売られる食べ物の値段はどれぐらいしたのだろうか。一三六三年には、ローストマトンの肩肉または脚は二ペンス半、去勢した食用おんどりを詰めたパイは七ペンス、焼いたガチョウ一羽も七ペンス。五十年後の価格もほぼ同じで、焼いたガチョウ一羽が七ペンス、だが、去勢した食用おんどりのパイは八ペンスに値上がりしている。豚の丸焼きが八ペンス、ローストピジョンが三羽で二ペンス半、焼き鳥が十羽で一ペンス。去勢した食用おんどりをパイに焼いてもらうには、二ペンス半かかったというから、かなり高くついたようだ(Reay Tannahill, 'The Fine Art of Food', London, 1968)。 [#挿絵(img/fig4.jpg)]  この一節がいみじくも証明しているように、米と干し果物もスパイスと見なされていた。  楽園のスパイスがナイル川に流れていき、それらが網ですくわれ、エジプトに定着したといった、いかがわしい話も出回っていた。十三世紀の中頃、フランスのルイ九世の第五回十字軍に随行したド・ジョアンヴィルはナイル川の豊かさに目を見張り、こう記している。「川がエジプトに注ぐあたりで、人びとは夜になると網をしかけている。朝になって網をのぞくと、ショウガや、ダイオウや、アロエや、シナモンがかかっていた。これらは楽園から流れてきたといわれている」(quoted in M. W. Labarge, 'A Baronical Household of the Thirteenth Century', New York, 1966)。いっぽうでは、こういったまことしやかな話をにがにがしい思いで聞く者もいた。たとえば、十三世紀のフランシスコ会の修道士バルトロメオ(Bartholomeus Anglicus) は、こういった話は価格をつりあげるために商人がでっちあげたものだと憤慨している(quoted in B. A. Henisch, 'Fast and Feast : Food in Medieval Society', 1978)。  スパイスと楽園の結びつきのためか、王侯貴族のみならず、清貧を重んじる立場にある高僧や修道僧までもが、スパイスを珍重した。聖ベルナールといえば、十二世紀を代表する修道僧だが、修道院でも味つけにスパイスが大いに用いられたことを、証言している。「料理の準備には多くの注意が払われ、調理もいろいろ工夫がこらされている。通常四、五皿が食卓に並べられ、初めの皿は次の皿をじゃますることなく飽食の欲求をみたしていく。味覚はスパイスで刺激され、スパイスの香りがずっとただよう」(G. De Valous, 'Le Monachisme clunisien des origines au XVe si縦le', 2 ed., Paris, 1970)。  というわけで、中世の金持ちの食卓では一つの皿に、今よりも、より強い風味のスパイスが大量に使用された。となると、材料の持ち味は完全に殺されてしまう。したがって、材料の自然な風味をいかに覆いかくし、客の舌をだますかが、料理人の腕の見せどころとなる。事実、このような技術は大いに価値あるものと見なされていた。  スパイスには、こんな利用方法もあった。時は、名君中の名君として知られるイギリスのヘンリー五世(在位一四一三—一四二二年)の御世。ヘンリー王は武勇の誉れ高いばかりでなく、気前のよさでも名高かった。王の催す宴会の食卓は古今東西の珍味であふれ、当代一の芸術家や芸人が芸を競ったという。そのために、ついに王家の金庫は底をつく。困りはてた王は、リチャード・ウィッティントンなる金持ちの織物商に泣きつき、莫大な借金をする。この商人はきっぷのいいロンドンっ子だったらしく、ロンドン市長に選ばれると豪華な宴会をひらき、その席にヘンリー王を招く。そして、並みいる王侯貴族や商人たちの前で、借金の証文を焼いて見せる。ただ焼いたのではない。シナモンとクローヴをふんだんに入れた火のなかに投げいれたのである。それを見た王はつぶやいた。「いかなる王といえども、かくなる贅沢はできまい」。 [#挿絵(img/fig5.jpg)]  フランスのロワール地方のブールジュには、スパイスで大金持ちになり、やがてシャルル七世の財務官にまでのぼりつめた貿易商人ジャック・クールのゴシック風の豪壮な館が残っており、観光の名所となっている。館のなかに入ると、香ばしいスパイスの香りが鼻をうつ。さもあらん、麻袋に積みこまれたさまざまな種類のスパイスが広間いっぱいに並べられている。スパイスを積んで地中海を優雅に疾走した貿易船を描いたステンドグラスの色もあざやかだ。八角形の階段の基部に、ジャック・クールが胆に銘じた言葉「大胆な心には不可能なものはない」が刻まれている。  ヘンリー王とウィッティントンにまつわる逸話が示しているように、スパイスの香りを味わうことも貴族趣味のひとつだった。気前のよい主人に招かれた客人だったら、食事のあと別室に招じいれられ、スパイスの利いたワインと菓子でふたたびもてなされるだろう。中世イギリスの騎士物語《ロマンス》『ガウェイン卿と緑の騎士』(十四世紀)では、緑の騎士を求めて荒野をさまよい歩いたあげく、ベルシラックの城にたどりついた騎士ガウェインを、領主ベルシラックは手厚くもてなす。さらに、饗宴が終わり、夜の礼拝もすむと、奥方をはじめとする貴婦人たちは、ガウェインを「部屋の暖炉の所まで導いて行って、香料入りの菓子を持って来るようにと特に命じ、人びとは大急ぎでそれをどっさり運んで来たが、その度毎に気持のよい酒も一緒に運び込むのであった」(宮田武志訳)。  スパイスがそのまま供されることもあった。そのような場合にそなえて、人びとはこう教えられていた。「甘い香りと味が口のなかで少しでも長く残るように、口を閉じてスパイスを味わうべし」。ようするに、飴を食べるときのように、吸ったり齧ったり、なめたりしながら念入りに味わったのだ。  料理人にとっては、スパイスは味つけのみならず、色つけの魔術師だった。たとえば、『メナジェ・ド・パリ』は、結婚したばかりの若妻のために歳上の夫が十四世紀の終わり頃に書いた料理の手引き書であるが('The Goodman of Paris', trans. E. Power, New York, 1928)、夫である著者は、ホワイトチキン・スープについて妻にこう指南している。「ほんのりと赤いコリアンダーの粉を振り、小さな砂糖菓子とザクロの種を撒き、器のまわりにアーモンドを飾ってから、食卓に出すべし」。  色のなかでもっとも好まれたのは、濃黄色だった。神を象徴する黄金に近かったからである。この色を出すためには乾燥したサフランが用いられた。十五世紀の終わり頃にロバート・ヘンリソンによって書かれた英詩『クリセイデ物語』('The Testament of Cressid') の結末に、恋人のトロイルスを裏切り、乞食となりはて、ハンセン病に苦しむクリセイデが昔を懐かしむ場面がある。目のまえの黴くさいパンと薄汚い皿を見て、美しい皿に盛られたサフラン色の食事を楽しんでいた頃の日々を想い起こす。  サフラン色の食事を好んだのは人間だけではない。イギリスの妖精の好物は、サフランで風味をつけたミルクにひたしたパンだった。  サフランの原産地はギリシアと小アジアということだったが、中世を通じてエーゲ海のレパント地方が主な生産地となっていた。しかし、十四世紀には、スペイン、イタリア、イギリスなどでも生産されるようになった。サフランの球根がイギリスに渡ってきた由来がおもしろい。  イギリスの巡礼が聖地参りの帰途、レパントに立ちよった。「お国のためになにかよいことをしよう」と決意した巡礼は、巡礼杖の柄をくりぬき、そのなかにサフランの球根を隠して持ちかえった。イギリスのエセックス地方にサフロン・ウォールデンという、中世以来の美しい町がある。十五世紀の終わりに建てられた教区教会のアーチと屋根飾りは、サフランの花の彫刻で飾られている。サフロン・ウォールデンは、かの巡礼が持ちかえったサフランで栄えた町だったのだ。  いまや焼失してしまったが、サフロン・ウォールデンの街なかに、シェイクスピアも泊まったという由緒ある旅籠があった。そのためかどうかはわからないが、サフランは、シェイクスピアの作品にも色付け師として顔を出している。『冬物語』の四幕三場、羊飼いの息子は、行商人の顔を見ると、羊の毛刈り祭りの支度をととのえるよう頼まれたことを思いだす。 [#2字下げ] えーっと。羊の毛刈り祭りのために何を買うんだっけ。そうだ、砂糖を三ポンドに、小粒の干しぶどうが五ポンド。それに米だ。……それから、梨パイの色づけに使うサフランも買わなくっちゃ。……それに、ニクズク、ナツメヤシ……ニクズクの種七個、ショウガを一、二本、こいつはただでもらえるかもしれん。干しスモモが四ポンド、干しぶどうが同じくらいと。 [#挿絵(img/fig6.jpg)] [#地付き](四幕三場)  十六世紀フランスの作家フランソワ・ラブレーが生みだした大食漢のガルガンチュアが、料理をおいしくするために、次々に口に運ぶのは、マスタードだ。マスタードにさえ手が出ない貧乏人は、たまねぎ、にんじん、にんにく、ねぎ、あさつきなどの、臭いや香りのきつい野菜を用いた。牛や羊の胃袋とたまねぎを組みあわせた料理は、今でも北イギリスの庶民が好む食べ物だ。貧しさを皮肉って、「すりばちはいつもにんにくの臭いがする」といういいまわしがあった。そのためか、金持ちは野菜スパイスをいくぶん軽蔑していた。十五世紀のある富裕な商人が商いを終えて帰国するとき、帰国を祝う席には「けっして、にんにくなどの野菜スパイスで味付けした料理を並べないように。食卓は(サフランやシナモンなどのスパイスを用いて)楽園のごとく見えるようにしなさい」と書き送っている(I. Origo, 'The Merchant of Prato', New York, 1957)。  食卓のうえで王者のごとく君臨したスパイスではあったが、栄華を誇った世の常なるものの例にもれず、衰退の時期が訪れる。材料じたいの持ち味が活かされる料理の流行とともに、スパイスの強い風味が嫌われはじめたからだ。そして、ありふれたハーブ、とくにパセリ、タイムに徐々に王者の席を譲っていく。この傾向はイギリスよりもフランスで強く、ついに、十七世紀末、フランスの貴族社会は、特権階級の大切な表徴であったスパイスを放棄する。『三銃士』で知られるアレクサンドル・デュマが、『料理大辞典』のなかで最大級の軽蔑をこめて語っているのは、ほかでもない、中世人が愛してやまないサフランだった。 [#改ページ]   にしんは魚の王様  食卓にのぼる魚の王といえば、誰でもまず、キング・サーモンを思い浮かべる。キング・サーモンやスパイスのように、めったに手に入らず、高価でとびきりおいしいものこそ、王者の名にふさわしい。  イギリスの民俗学者キャサリン・ブリッグズの『イギリスの妖精』によると、マスとサーモンは、ケルトの伝承ではもっとも神聖なる魚だった。ケルトの多くの井戸にはマスが棲んでおり、妖精を見ることのできる人だけが目にすることができたという。とくに、ハシバミが実を落とす淵にひそむサーモンは、魔法の力を持っていると信じられていた。そのようなサーモンを一口でも食べた人は、味覚が敏感になって繊細な味を味わうことができるようになった。アイルランドの伝説的な英雄フィオーンの歯が魔法の力を獲得したのは、ハシバミで育ったサーモンを食したためだといわれている。かくも貴重なサーモンだったから、むろん庶民の食卓にのることなどめったになかった。  中世の食卓の魚の王は、にしんだった。安くて、誰にでも手に入り、そしておいしかったからである。  魚貝類が主役になるのは、復活祭前の四十日間の四旬節である。この時期、人びとは、神のひとり子イエスを十字架にかけた罪を深く悔い、いっさいの楽しみを断ち、神の救いを待ちのぞみながら、祈りと悔悟のうちに日々を過ごした。  四旬節をむかえると、悔悟の証として、人びとは、荒野で四十日間断食して苦行したイエスに倣い、断食をはじめる。断食といっても食を断つわけではない。天使が運んできた天国の食物で命をつないだというイエスと違って、並みの人間に四十日間この世の食物を食べずにいることなどできはしない。だが、一日二回(よほどの金持ちでないかぎり、朝食を食べる習慣はなかった)の食事は一回にしなければならなかった。その一回の食事時には、たっぷり食べてもかまわなかった。ただし、肉はもちろんのこと、肉にかかわるものはいっさい禁じられた。牛や羊の乳のみならず、ミルクを原料とするバター、チーズもご法度。卵もむろんいけない。獣脂で調理した野菜すら禁止された。断食の規則を厳格に守れば、パンと水だけで過ごす羽目になる。パンと水のみで、身体と心の健康を保ちながら四十日間を生きのびるには、超人的な忍耐と健康が要求されたであろう。日常の主要食糧がすべて禁止とあらば、たいして信心深くない普通の人たちは何を食べて命をつないだのだろうか。  四旬節の初日、灰の水曜日になると、魚貝類がいっせいに、人びとの食卓に姿をあらわす。魚貝類だけは、四旬節の食卓にのることが許されていたのだ。いつもは肉類に人気者の座を奪われ、肩身の狭い思いをしている魚も、四旬節ばかりは、華やかな脚光を浴びる。 [#挿絵(img/fig7.jpg)]  中世人にとって、水に棲む魚は聖なる生きものであった。それには次のようなわけがある。神がアダムとエバの裏切りに怒り、ふたりを楽園から追放したとき、彼らと共に、地に生まれ地で育った被造物はものみな呪われた。だが、魚貝類だけは神の呪いを受けずにすんだ。水のなかで棲息していたからである。水は罪を清める力を持っている。ノアの時代、罪にまみれた世界を浄化したのは水であったし、神の子となるためには、洗礼という水の儀式を受けなければならない。涙でさえ、神聖視された。罪の重みにうちひしがれて、頬を伝わる涙をぬぐおうともせず、イエス・キリストの足を香油できよめた娼婦マグダラのマリアは、復活したイエスに最初にあいまみえるという、キリスト教徒にとって最大の名誉を与えられている。アーサー王をふくめて中世騎士物語の英雄たちが盛んに涙をこぼして泣くのも、泣くことが「女々しい」と思われてはいなかったればこその話である。  というわけで、修道院の食事でのメインディッシュは魚だった。十五世紀のクリュニー派の修道院では、肉がないのを埋め合わせするのに、大きな魚が二度出されたという(G. De Valous, 'Le Monachisme Clunisien des origines au XVe si縦le')。  さて、四旬節が近づくと、魚屋に人がどっと押し寄せる。需要が多ければ、当然価格もあがる。この時期の魚は、淡水魚でないかぎり、ほとんどが加工品であったから、そのぶんだけ値段は高い。魚屋は笑いがとまらない。抜け目のない魚屋はストックを出し惜しみ、価格をさらにつりあげる。価格上昇を見越して、買いだめをする消費者もいた。当然、供給が需要に追いつかない。市場から魚が姿を消すこともしばしばだった。四旬節の最初の水曜日に、魚が市場から姿を消したりすると、市民から教会に嘆願書が出されることもあったという。断食の初日を木曜日に変更してくれというのである。  四旬節のための魚をいかに確保するかは、主婦の大事な仕事の一つであった。賢い主婦は、価格の安いときに新鮮な魚を大量に買いこみ、保存食に加工し、四旬節に備えた。  四十日間、魚だけがたよりとあらば、手に入る魚は安く、栄養価が高くなければならない。それに、ヨーロッパ中のキリスト教徒がみないっせいに断食を始めるのであるから、大量に出回るものでなければならない。  秋ともなれば、イギリスや北ヨーロッパの海岸に、海を黒く染めるほどに群れをなしてやってくるにしん。大量に獲れ、保存も簡単。にしんこそ、北国の四旬節の主役だ。秋に獲れたにしんは塩漬けにされ、乾燥され、あるいは燻製にされて冬の間中保存される。そして、四旬節が近づくと、どっと姿を見せる。四旬節の初日の灰の水曜日に食卓にのぼったにしんは、誰が何といおうと、復活祭の日曜日まで、でんと玉座に座り続ける。十六世紀イギリスの風刺作家トーマス・ナッシュが、四旬節のにしんを評していみじくもこういっている。「にしんの奴め、頭に冠をのせておるわい。王者のしるしじゃな」。  にしんで大儲けしたのは、魚屋ばかりではない。加工工場はいうにおよばず、船大工、縄製造業者、網製造業者、樽製造業者、梱包業者、配送業者など、関連の業者までもがにしんのおかげで繁盛した。塩漬けにしんで渇いた喉を潤しに、人びとは居酒屋に通ったから、ビール醸造業者や居酒屋もにしんの恩恵にあずかった。  不思議なことに、肉を料理するときには不可欠のスパイスと砂糖菓子と、それに酒類だけは断食の規制の目を逃れていた。スパイスも砂糖も贅沢品だったから、食べられようと食べられまいと、ほとんどの庶民には関係なかったであろうが。  酒類については、聖パウロという力強い味方がいた。聖パウロ自身が何と「飲酒のすすめ」を残しているのだ。「これからは、水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」(『テモテへの第一の手紙』五・二三)。また、「魚も泳がねばならない」といういいまわしもあった。もともと「おいしい魚料理にはおいしいワイン」という意味だったようだが、しだいに酒飲みの口実に使われるようになった。にしんばかり食べさせられて、欲求不満の乾いた胃袋を抱えた人びとは、あれこれ口実をもうけては居酒屋にせっせと通ったから、どこでも居酒屋はいつもより繁盛した。  イギリスのワイト島にヨーマスという港町がある。この町には、秋風とともにお金がどっと流れ込んできた。というのも、「にしんが帆船をヨーマス湾へ引っ張るからだ。その力は、トロイアの王子パリスを魅きつけ、トロイア戦争を惹き起こしたヘレネーの美しさ以上だった」という。  にしんが姿を見せたのは庶民の食卓ばかりではなかった。シェイクスピアの『十二夜』の、「ウィッ、ちくしょう、塩漬けにしんめ!」と、ゲップを出しながらオリビア姫の前にあらわれる(一幕五場)、姫の叔父サー・トービーもにしん愛好者だ。シェイクスピアと同時代の劇作家ロバート・グリーンは、塩漬けにしんのごちそうであきれるほどひどく肥満したあげく、死んだという(ニール・ローズ『エリザベス朝のグロテスク—シェイクスピア劇の土壌』上野美子訳)。にしんひとつを取っても、イギリスの中世・ルネッサンス期では、事実上、十七世紀や十八世紀に見られるような、階級間における食事の格差がなかったことがわかる。  宗教改革の嵐が吹き始めると、四旬節の規制が緩む。それと共に、にしんを主とする水産業も衰退する。もともと肉食の人たちである、規制が緩めば、肉へ走るのが人情。食生活の変化は、産業の構造のみならず、人びとの健康にも影響を与えた。十七世紀のイギリスのある熱狂的な魚愛好者が嘆いている。「四旬節が守られなくなって、魚を食べる人が少なくなった。嘆かわしいことだ。医者もいっているが、不快感と震えを伴い、絶えず襲ってくる骨や関節の痛みも、魚を食べないせいだ。薬草、生野菜、それに魚をたっぷり食べる国民にくらべて、 わが国民のなんと不健康なことか」(Izaak Walton, 'The Complete Angler', Harmondsworth, 1939)。  王様といえども、長居をすれば嫌われる。にしんとて、例外ではない。明けても暮れてもにしんばかりのメニューは、とくに育ちざかりの子供にはこたえたらしい。十五世紀のイングランドの少年の不平に耳を傾けてみよう。「僕がどんなに魚に辟易しているか、どんなに肉を食べたがっているか、おわかりにならないでしょう。四旬節の間、塩漬けの魚以外何も口にしていません。おかげで、僕の体調は変調をきたし、僕は話すことも息をすることもできなくなりました」('A Fifteenth Century School Book', ed. W. Nelson, Oxford, 1956)。  男のヒステリーは魚が原因と考えられていたらしい。フォールスタッフいわく、「アルコール抜きの飲み物ばかり飲むから血が冷える。魚ばかり食うから男のヒステリーになる」(『ヘンリー四世第二部』四幕三場)。  なかでも、燻製にしんがもっとも嫌われた。燻製にしんは保存も調理も簡単で、非常に安いために市場に大量に出回ったから、毎日のように食卓にあらわれた。注意深い主婦は、目先を変えるためにいろいろな工夫をした。塩辛い皮の部分を剥いで料理するのもその一つ。燻製にしんには、ときどきマスタードが添えられた。「燻製にしんとリング(タラに似た魚)は、マスタード嬢のお伴なしで食卓に姿を見せたことはない」といわれるほどに、にしんとマスタードはいっしょにあらわれた。だが、いかに趣向を凝らしても限度がある。四十日間、毎日毎日にしんばかりにつきあわされていたのでは、たまらない。  四旬節も半ばを過ぎると、燻製にしんは四旬節とともに、欲求不満の胃袋の持ち主たちから目の敵にされるようになる。にしんといっしょに食卓に姿を見せたマスタードも、そのあおりをくって槍玉にあげられる。フランス・ルネッサンス期最大の風刺作家、フランソワ・ラブレーが描く四旬節の王が君臨するのはマスタード王国。この四旬節の王には、庶民の怨念がこめられている。ラブレーは教会が定めた四旬節のことをこういってはばからない。「天下無類の灰色豆喰い、天下無類の鰊樽喰い、天下無類の土竜《もぐら》取り、天下無類の秣束《まぐさたば》野郎、提燈《ランテルノワ》国出の二重剃髪薄毛の半巨人、無双の出鱈目野郎、魚食《イクチオフアージユ》族の旗持ち野郎、芥子泥《ムウルタルドワ》国の独裁者、幼児の鞭打者、灰焼き野郎、医者どもの父でもあり養い手でもあり、赦免状、贖宥符、免罪目当ての参詣を一杯抱えた野郎、御紳士様、信心深い善良なカトリック教徒の御仁でございますな」(『パンタグリュエル物語』渡辺一夫訳)。  いつの世も、こと人気に関する限り、大衆は移り気だ。熱狂して迎えられ、戴冠までしたにしんではあったが、最後はじつに悲惨な運命をたどる。  四旬節がいよいよ終わろうとする聖洗足木曜日(復活祭の前の木曜日)、フランスのサン・レミの町の聖職者たちは、「影踏みごっこ」ならぬ「にしん踏みごっこ」を繰り広げた。縄に下げたにしんをぶらさげ、行列して歩くのだが、自分のにしんは踏まれないようにして、前の人のにしんを踏む。オックスフォード大学に十九世紀まで残っていた慣習では、復活祭の日曜日の朝、高位聖職者や教授たちの座るハイテーブルに燻製にしんが置かれる。にしんはコーンサラダの上にのっかっていた。馬にまたがるにしんという意味である。この悪ふざけには、「にしんよ、馬に乗ってさっさと出ていってくれ」との願いがこめられていた。にしんを送り出すこのような悪ふざけの儀式は、四旬節に人生の楽しみを奪われた人びとの、ささやかな抵抗だったのかもしれない。こうして、人びとはにしんと別れる日をひたすら待ち望み、その日が来ると、狂喜して「にしん」を送り出した。  にしんが立ち去ると、待ちに待った復活祭の御到来だ。卵を筆頭に、それまで姿をひそめていたごちそうが食卓に姿を見せ、世界はいっせいに華やぐ。このとき、人びとは四旬節のこともにしんのことも忘れて浮かれ楽しむ。 [#改ページ]   オムレツとプリンが戻ってくる日  母が今でも作ってくれるお正月のおせち料理の一つに、やわらかく煮た大豆に塩出し数の子をそえ、生醤油をかけて食べる素朴な料理がある。子どもの頃は、正月になるとこの料理を山ほど食べた。かつてはにしん御殿が建ち並んだ北海道の漁場からにしんがめっきり減り、数の子が「黄金のダイヤモンド」などと呼ばれて珍重されるようになってからは、数の子料理がわが家の正月の食卓を飾ることもめったになくなった。だが、最近は、輸入ものの数の子が増えたためであろうか、比較的手に入りやすくなったようだ。最近は、正月に、数の子の歯ごたえを楽しみながら、母の手料理を満喫している。これも、海の民ならではの風習であろう。  しかし、ヨーロッパの海の民に、数の子に子孫繁栄の願いを託す風習があるとは聞いたことがない。精進潔斎をきめこむ四旬節に四十日間、ひたすらにしんに頼って命をつないだ中世ヨーロッパ人でさえ、にしんの子である数の子に子孫繁栄の祈願などはしなかった。だいたいにおいて、ヨーロッパ人は、グルメ志向の変わり者でもないかぎり、魚の卵などを好まない。クリスマスと新年に、わが数の子のかわりをするのは、卵は卵でも、鶏卵、エッグである。キリスト教国では、卵こそ、生命の象徴なのだ。  復活祭といえば、死からよみがえったイエスを記念するイースターエッグを思い出す。だが、卵が新しい生命の誕生を象徴するのならば、主イエス・キリストの生まれたもうたクリスマスこそ、卵にふさわしい季節なのではないのか。そして、それを裏づける古い風習も多くある。  イギリスの北部地方には、十九世紀の末まで、出産祝いに卵と一握りの塩と六ペンス硬貨を贈る習わしがあった。塩は命を維持するためのもの。もちろん、「地の塩になれ」という願いがこめられている。卵は子孫繁栄を願ってのこと。六ペンス硬貨の意味ははっきりしない。少し時代がくだると、「ああ、私のかわいい六ペンス! 大好きな六ペンス! 自分の命より好きな六ペンス」(O my little sixpence ! I love sixpence ! I love sixpence better than my life) ではじまるマザーグース(イギリスの童謡)が流行した。また「六ペンスの唄を歌おう。ポケットにはライ麦がいっぱい」(Sing a song of sixpence, a pocket full of rye) という、とても愛好されたマザーグースもある。とにかく、イギリスの昔の貨幣制度では、六ペンス(半シリング)は、需要のきわめて多いコインだったことだけは確かである。  ヨークシャーのウェイクフィールドには中世の愉快な降誕劇が伝えられているが、そこに登場するお人好しの羊飼いたちは、盗まれた羊を探しに羊泥棒の家に踏みこみ、ゆりかごに横たわる幼な子(実は、これが盗まれた羊で、幼な子イエスのグロテスクなパロディ)に、ポケットをはたいてかき集めたなけなしの六ペンスを贈る。緊急のこととて卵と塩の持ち合わせはない。六ペンスは、当時の職人の一日分の賃金、労働者の一日半分の賃金に相当した (J. E. T. Rogers, 'Six Centuries of Work and Wages', London, 1917)というから、祝い金としてはけっして少なくない。  ドイツのミュンヘン近くのある村にも、十二月二十四日に産んだ卵を幼な子イエスの誕生を祝して教会に贈る風習があり、集まった卵は聖堂守の収入の一部にあてられた。別の村では、クリスマスイブに、聖堂守が祭壇の上にバスケットを置き、そのなかに、近隣の農夫たちが、若いめんどりが産んだ最初の卵を入れ、幼な子イエスへの贈り物として捧げた。同じくドイツのプファルツ地方には、「キリストの卵」という名の昔から伝わる菓子があった。イースト菌入りの練り粉を三日月形とか人の形とか、さまざまな形に焼きあげた菓子は、クリスマスや正月に使用人などにご祝儀として配られた (Venetia Newall, メEaster Eggs : Symbols of Life and Renewalモ, 'Folklore', vol. 5, 1984 : i)。  六ペンスはさておき、塩と卵の組み合わせには子孫繁栄と生命維持のほかに、別の意味もあったらしい。塩と卵に加えて小麦粉は、宇宙の善なる魂からの貴重な贈り物だと考えられていた。クリスマスの十二日間は、悪霊や死者の霊が活発に動き回ると信じられていたが、これらを塩と卵と小麦粉でなだめたというのだ。  来たるべき新年が佳い年であるか否かは、悪霊との闘いにかかっていたというわけであろうか、とくにドイツやオーストリアでは、クリスマスの卵占いが盛んだった。クリスマスイブに卵を食べ、黄身が二つの卵ならば大吉。  ミサに行くまえにナベに卵を割って入れ、ミサから帰ってきてナベをのぞく。卵黄の描いた形が、その人の未来を告げる。あるとき二人の姉妹が卵割りをした。姉の卵の黄身は家と庭の形をしていた。妹の卵の黄身は墓の形をしていた。翌年、姉は結婚し、妹は天国へ召されたという。  また、こんな占いもあった。クリスマスのミサを告げる教会の鐘が鳴っているあいだに、近くの小川から水を汲んでナベに入れ、そのなかに卵を割って入れ、運命を占った。  結婚適齢期の娘が、クリスマスの朝、祈祷のときに卵割りで婿選びをする風習がババリア地方にあった。若いめんどりが最初に産んだ卵を、一リットルほどの冷たい水のなかに割って入れる。卵黄が描いた形は、花婿となるべき人の住む村や教会を示していた。  新しい年の気候もクリスマス・イブに卵で占われた。十二個の卵の殻に一月から十二月までの月を描きいれ、塩を詰める。夜のうちに殻が湿った月は雨の日が続くといわれていた。一年の計は卵にありきというのだろう。このように、卵は復活祭以上に、ヨーロッパのクリスマスと新年には欠かせないものだったのだ。  卵とともに新しい年を迎えるヨーロッパはまさに卵文化の国だ。人びとは毎日のように卵を食べる。ゆで卵、目玉焼き、煎り卵、落とし卵。サクサクとして吹けばとぶように柔らかいスフレ、その形を壊さずに、どうやって台所から大広間までの長い、すき間風の吹く道程を運んだのだろうか。あわ立てた卵白と他の材料をまぜてふくらませ天火で焼く料理は、すでに中世からあった。焼き菓子は卵黄でアメ色に色づけされたし、鉄串に刺して焼きあげた鶏や豚も、卵黄で最後の化粧をほどこされ、黄金の輝く姿を食卓に見せた。  ウエハース、パンケーキ、オムレツなど日常好まれた料理のベースになっているのは、いわずと知れた卵。中世の料理の本から察するに、中世のパンケーキには卵白だけが使われたようだ。卵白と小麦粉だけの軽いパンケーキに砂糖をふりかけて食べた。反対に、中世のオムレツは栄養に富み、こってりしていた。魚、干しぶどう、挽き肉、とにかく手近にあるものなら何でも中身になった。オムレツの別名のひとつはフロイズ(froise)。十四世紀のイギリスの詩人ジョン・ガウアーが『恋する男の告解』のなかで用いているたとえが実におもしろい。「あいつめ、いびきをかいて寝ているわい。僧侶の作るフロイズがフライパンのなかに投げこまれたときみたいに、ブクブク、シューシュー、音をたてている」。  溶き卵にちぎったパンを入れ、だんご形にしてチキン・スープに放りこみ、セージの葉で風味を出し、サフランで色づけする料理も好まれた。もっとこってりしただんごを作るには、卵、パン粉、クリーム、挽き肉をまぜ、コショウで味つけし、リネンの袋に入れてゆで、だんごが固まったら袋から取り出し、網で狐色に焼きあげる。卵黄とミルクで作るカスタードも好まれた。こちらのほうは今と同じものであったようだ。卵と牛乳をまぜあわせ、火にかけ、ヴェルヴェットのようになめらかにする。ツブツブ状になってはいけない。それを避けるには、「けっして煮たたせないこと。こってりしてくるまで、かきまぜ続けること」と、『メナジェ・ド・パリ』の著者は妻に教えている。今とちがうのは、スープの一種として棒状のパンといっしょに出されたり、タルトの詰め物として広く使われたことだろう。  さて、こんなにも愛された卵がいっせいに姿を消す日が年に一度やってくる。四旬節《レント》前の三が日は、五旬節シュローヴ・タイド(Shrove-tide) という。五旬節の火曜日の朝、教会の鐘が鳴る。鐘の音とともに、人びとは教会に出かける。帰ってくると、ありったけの卵を使ってパンケーキを作る。五旬節の火曜日を期して、卵は姿を消し、復活祭の日曜日までけっして姿をあらわさない。卵にかぎらず、魚を除いて、肉、バター、チーズなどあらゆる動物性蛋白が食卓から消える。消えた膨大な食べ物はどこに行くのか。行先は、「四旬節の直前によたよた巨体をゆさぶらせながら、やってくるシュローブ・タイド様の腹のなか。全国民が四十日間で食べるものを、彼は十四時間でたいらげる。ゆでたもの、あぶったもの、ローストしたものに、トーストしたもの、シチューにごった煮、焼きものにフライ、挽いたもの、きざんだもの、切り分けたもの、何でもガツガツむさぼり食らうお方じゃ」(John Taylor, 'Jack a Lent' (1617), in 'Early Prose and Poetical Works', London, 1888)。  シュローヴ(Shrove) はシュライヴ(shrive) から派生した語で、ざんげという意味。人びとは午前中に教会で一年に犯した罪を告解してから、卵をはじめ家中の食べ物を腹いっぱい食べ、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎを繰り広げた。翌日は、うって変わってお通夜のような暗い聖灰水曜日。四旬節の初日だ。  陽気で明るい無礼講の五旬節の火曜日と、陰気で緊張感に満ちた聖灰水曜日の対照を、フランドルの画家ピーテル・ブリューゲル(父)が見事に絵にしている。『カーニバルとレントの戦い』(一五五九年)だ。大きなパイを手にして酒樽のうえに座り、ソーセージやチキンを刺した串で、レントの「聖灰水曜日」を攻撃しているのは、カーニバルこと「五旬節の火曜日」。彼の後ろで、卵に囲まれたひとりの女性がパンケーキを作っている。人びとがばか騒ぎをしている地面のうえには、汚れた卵の殻や骨やトランプがちらばっている。レントの、何とやせこけ、何と陰気な顔つきをしていることか。カーニバルを迎え撃つ彼の武器は、二匹のにしんを刺した水かき。哀れなにしんの最後だ。まわりにはカラスガイがちらばり、大きな籠のなかにも貝が入っている。パンもころがっている。大声をはりあげる魚屋。この時期金儲けするのは魚屋だけだ。乞食が施しにあずかろうと行列している。 [#挿絵(img/fig8.jpg)]  陰気で暗いレント様に四十日も支配されたのではたまらない。体力は弱まり、気がめいってしまう。ああ、卵が帰ってくる復活祭が待ち遠しい。卵が帰ってくる日、人びとはこう歌って神に感謝する。 [#ここから1字下げ]  復活祭がやってきた、ハレルヤ。  バターも、チーズも、ヨモギギクで風味をつけたオムレツとプリンも戻ってきた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](early sixteenth century Carol in Douce MS.) [#改ページ]   饗宴と精進潔斎  カーニバルとレントというと、イギリスのノルマン朝時代の大蔵省を思いだす。ノルマン王朝の時代、年に二度、国内の地方長官はみな、出納法院におもむき、会計報告をしなければならなかった。法院の大広間に置かれた長い大きな机は、白と黒のチェックの布で覆われており、机が巨大なチェッカー(将棋盤)のようだったことから、エクスチェカー、つまり大蔵省の名が起こった。饗宴の白と精進潔斎の黒でくっきりと区切られたヨーロッパ中世人の一年の食生活もまた、チェッカー(将棋盤)のようだ。もっとも、この将棋盤の上で踊るのは会計報告書ではなくて、生身の人間ではあるけれど。  クリスマス前の四週間を降誕斎期という。世の救い主イエス・キリストの降誕を待ちのぞむ時期だ。ヨーロッパ人の年の始めは、降誕斎期の第一日曜日から始まる。人びとは、肉類、バター、チーズ、卵、ミルクなど、魚貝類をのぞくタンパク質を断ち、いっさいの娯楽をあきらめ、ひたすら祈りと悔悟にあけくれる。罪深いわが身をふりかえり、救い主の誕生をひたすら待ちわびる。  四週間後、陰気な「降誕斎期」にやっとおさらばする日がくる。彼に導かれて、ケバケバしい衣装をまとった陽気なクリスマス、降誕祭がやってくる。人びとは禁忌から解放され、鯨飲馬食を許される。粗食に甘んじた四週間の恨みを晴らそうと、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎを繰りひろげる。 [#挿絵(img/fig9.jpg)]  寒さが薄らぎ、冬と春が張り合い、人びとが浮かれ騒ぎに倦み疲れてくるころ、やせこけ、青ざめた顔のレント様、四旬節がヨロヨロとやってくる。「四旬節」が王として君臨する四十日間、人びとは一日二回の食事を一回に減らし、魚とパンと水で命をつなぐ。荒野で四十日間断食して苦行し悪魔の誘惑に打ち勝ったイエスに倣おうというのだが、日々、肉と卵を食していた人びとにとって、これがいかにつらい苦行であったことか。ほんとうに、他人の真似をするのも楽ではない。中世の農夫は、土地からの収穫物の十分の一を領主に差し出さなければならなかったが、それにちなんで、誰もかれも、一年のほぼ十分の一にあたる四十日を「一年の十分の一の日々」と呼び、イエスに捧げた。  十五世紀の少年が告白しているように、「話すことも息をすることもできない」ほどに弱りはてたころ、輝く春の光とともに、黄金の冠を戴いた「復活祭」がやってくる。卵が戻ってくる。肉が戻ってくる。サフラン色にこんがりと焼けた豚の丸焼きやローストピジョンが食卓に並ぶ。「イエス・キリストの血がわれらの魂を不滅のものにしてくださいますように」と、祈る人の姿が教会に満ちあふれる。  一週間もまた、白と黒で区切られていた。ユダがイエスを裏切り、銀貨三十枚でユダヤ人に売った水曜日、イエスが十字架にかけられた金曜日、そして、イエスの母、処女マリアに捧げられた土曜日には、肉を断ち、性的快楽も退けなければならなかった。この掟を破れば、不具の子が生まれるばかりでなく、死後は地獄に堕ちると信じられていた(復活祭、九月の聖十字架祭、降誕祭に先だつ四十日間も、夫婦の交わりを控えねばならなかった)。水、金、土の一週間三日の精進潔斎は、四旬節の初め、聖霊降臨節の直後、九月の収穫祭、十二月の降誕斎期には、四季大斎日といわれて、とくにしっかり守らなければならなかった。  その他、人びとは自分の生活のリズムにあわせて、食事を規制した。今でいうダイエットである。ただし、中世のダイエットは美容や健康のために行われてはならなかった。  聖アウグスティヌスというと、初期キリスト教会の指導者で、有徳で名高い人物であったが、若いころには美食と放蕩にあけくれた。それだけに、聖職者に転じたのちにも、一日一食のダイエットには苦労したようだ。アウグスティヌスは、ダイエットは健康によいからと自分を励ましたが、これは、神を侮辱する行為と、仲間たちから糾弾された。  中世のダイエットは肉体に巣くう罪という埃やケガレを清める機会であったから、贅沢をつつしむこの時を利用して倹約してはならなかった。肉こそ食卓にのせることができないものの、その分だけ量をふやし、食べきれない分は、貧しい人に分け与えなければならなかった。  個人的な精進潔斎はあくまで個人の苦行であり、他人に押しつけるものではない。しかし、尊敬に値する高潔な人物の条件のひとつは、客を豪華な食事で手厚くもてなすことであったから、精進潔斎中の友人をそれと知らずに訪れたり、反対に、精進潔斎中に訪問客があったりすると、ばつの悪い思いをしたり、誤解されもした。  もう一度、聖アウグスティヌスに登場してもらおう。アウグスティヌスは放蕩にあけくれた日々をつぐなおうと、何年も肉を断って暮らしていたが、そんなある日、カルタゴで豪華な夕食会に招かれた。彼のために特別料理が用意された。王侯貴族の口にもめったに入らないくじゃく料理だ。くじゃくの肉は腐らないと信じられていたために、教会はくじゃくを、永遠の命のシンボルと見なし、ことのほか珍重していたが、おりしも、その不滅性をめぐって議論が沸騰していた。せっかくのくじゃく料理に手をつけることができないアウグスティヌスは、主人の好意を無にしまいと、ゲームを思いつく。それは、この機会を利用して、くじゃくの不滅性をテストしてみようというものだった。  アウグスティヌスはくじゃくの胸のやわらかい肉を一切れ自分の皿に取り、いった。「一年後にこのくじゃくの肉がどうなっているか見てみましょう」。数日後、アウグスティヌスはくじゃくの肉を取りだした。いやな臭いは何もしなかった。一か月後、肉にはいかなる変化も見られなかった。一年後、肉は干からび、縮んで小さくなっていたという。  また、こんな話もある。パレスティナからの修道僧の一行が、エジプトの名高い隠者のいおりを訪れた。隠者は修行を中断し、一行のために台所でかいがいしく働きはじめた。一行は隠者が用意した心づくしの食事をぺろりとたいらげてから、眉を吊りあげていった。「あなたは隠者の身でありながら、どうしてこのような安楽な生活をしているのですか」。隠者は答えていった。「常日ごろ、私はつましい生活をしています。でなければ、あなたがたをおもてなしすることはできません。精進潔斎は私の大事な修行ですが、これは私個人の問題であり、あなたがたには関わりのないことです。あなたがたを送り出しましたら、またもとの生活に戻りましょう」。  厳格な精進を誇りにしている修道僧が、ある隠者のいおりを訪れた。すでに先客が数人おり、隠者を囲んで彼の話に耳を傾けていた。食事どきになり、隠者は野菜スープで客をもてなした。修道僧はスープには目もくれず、ずだ袋から乾燥豆を取りだし、黙って豆を噛みはじめた。スープを口に運ぶ一同の手がとまったかと思うと、みるみる顔が罪の意識で曇った。それから、ひとり、ふたりと黙って席をたって出ていった。隠者は修道僧にむかっていった。「兄弟よ、自分の日ごろの生活を他人に見せびらかしてはならない。それができないなら、自分のいおりでじっとしていなさい」。  修行と精進に明け暮れるモノトーンの辛い日々も、他人への思いやりによって彩り豊かなものとなる。もてなしも、愛があってこそ、心暖まるものとなる。自分に対する厳しさと、他人に対するやさしさの、二つの歯車の調和がとれたところに、まことの精進潔斎があるのだ。  中世の王侯貴族が、精進潔斎期に訪れた不意の客をいかにもてなしたか。それを知るのに、『ガウェイン卿と緑の騎士』のなかに、格好の場面がある。  緑の騎士を求めて遍歴を続けるガウェイン卿が、ベルシラックの城にたどりついたときは、クリスマスイブだった。四旬節の最後の日とて、その名を知らぬ者とてない騎士の華、王の血筋にあるガウェイン卿にふさわしい食卓の用意をすることができない。しかし、城の料理人は、きびしい規制のなかで腕をふるう。  ガウェインが豪奢な椅子に腰かけながら暖をとっていると、従者たちがあらわれ、まもなく見事な架台のうえに板を置き、テーブルをしつらえた。 [#2字下げ] テイブルには純白の清潔なテイブルクロースがかけられ、その上に上掛けがかけられて、塩入れと銀のスプーンが置かれてあった。ガウェインは充分に手を洗って食卓についたが、この席にふさわしく、いつもの二倍も、申分なく調味せられた幾品もの素晴しいスープが出されて、全く豪奢なもてなしであった。ほかに沢山な種類の魚が出されたが、その魚は、或はパンに入れて焼かれ、或は炭火で焙られ、あるものは煮られ、あるものは香料で風味がつけてあるスープの中に入れてあったが、ソースはどれもこれも大変よく出来ていて、ガウェインの気に入ったのであった。 [#地付き](宮田武志訳)  ほんの「精進料理」といって出された豪華な夕食に、ガウェインは肝をつぶし、「いや、全くのご馳走で」と、何度も繰り返すばかりであった。客をもてなす心があり、料理の腕が確かであれば、精進料理も豪華な宴の料理に変身することができるのだ。  食事がすむと、城の奥方がガウェインを暖炉のそばに導いていき、「香料入りの菓子」とワインでもてなした。精進潔斎期に、一日一食で苦しむ胃袋と口さみしさを、香料入りの菓子とスパイスで慰めることは、なぜか許されていたからだ。とくに北国では、干しイチジクがことのほか好まれ、この時期のイチジクは「四旬節のイチジク」と呼ばれた。四旬節になると、誰もかれも、イチジクをもとめて奔走したから、値は数倍にはねあがる。需要が高まったときにイチジクを一気に放出した貿易商人は莫大な資産を築くことができたが、反対に、途中の海でしけに遭い、輸入が遅れたりすると、破産の憂き目にもあった。  金《きん》に匹敵するほど高価なスパイスをまぶした砂糖漬けのベリーやショウガ、アーモンドバターの塊(すりつぶしたアーモンドの粉に砂糖と薔薇香水をまぜてこね、塊にする)などで客をもてなすことができるのは、王侯貴族か金持ちの商人だけだった。それだけに、この特権を行使しない金持ちは、「財布に金を貯めこみ、腹に飢えを溜めこんでいる」と軽蔑された。 「魚だって泳がにゃならん」とか「おいしい魚料理にはおいしいワイン」といって、酒類も規制の網の目を逃がれていた。  さて、ウェールズ生まれのジラルドゥスという歴史家が、一一七九年に、イギリスのケント州にあるカンタベリーの修道僧たちから食事に招かれた。彼はこのときのことを印象深く記している。 [#2字下げ] 食卓には、ありとあらゆる種類の魚料理が並んでいた。焼いたもの、ボイルしたもの、詰めものにしたもの、フライにしたもの、卵とコショウで味つけしたもの、ありとあらゆる香料と薬味で味つけされており、あまりに上手に料理されているので、「大食漢」はくすぐられ、「食欲」は目覚まされる。……ワインに、蜂蜜酒、クラレット(フランスのボルドー産の赤ぶどう酒)、果汁液、ミード(蜂蜜酒の一種)、クワの実のジュース、ありとあらゆるアルコール類(もっとも、庶民の飲みもの、イギリス産のビールは見られなかったけれど)は飲み放題だった。       (Giraldus Cambrensis, 'Autobiography', [#ここで字下げ終わり] [#地付き]trans. H. E. Butler, London, 1937)  精進に倦みつかれたとき、饗宴の季節がやってくる。飽食飽飲のあとには、また静かな精進の時が訪れる。肉を断ち、苦行に励み、欲望を抑えながら、その最後に迎える降誕祭と復活祭の何と楽しいことよ。饗宴の席が何とまぶしく見えることよ。中世の人びとが「飽食の時代」の倦怠と虚ろさからは無縁であったのも、ハレとケのチェッカーを生活の舞台としていたからにほかならない。 [#改ページ]   羊飼いの饗宴  十二月の声を聞くと、ヨーロッパのキリスト教国はいっせいに装いを変える。町角にたたずむモミの木には色とりどりの電球が点滅し、建物はさまざまなデコレーションでせいいっぱいのおしゃれをする。聖画や金銀のモールで飾られたショーウィンドー、軽やかな音をたてながら走る花電車。マントルピースの上に置かれたキリスト降誕のミニチュアの人形群。真っ白な長いひげをたくわえ、真っ赤な衣装に身をつつみ、黒いブーツをはいたサンタクロースも、満面に笑みを浮かべながら登場する。昨今は、キリスト教とはさほど縁のない日本の十二月の町の装いも、どのキリスト教国にもまけないほど華やかだ。「ジングル・ベル」の流れにつられてせかせか歩きながら、この時期になると思いだすのは、イギリスの北の国、ヨークシャーの野原で繰りひろげられたささやかな饗宴だ。 『世界キリスト教百科事典』によると、カトリックとプロテスタントとを問わず、一九八〇年代初頭の、教会に属しているキリスト教徒の数は十四億三千二百六十八万六千五百人、世界人口の三二・八パーセントである。世界宗教として、この数字が妥当であるかどうかわからないが、とにかく、驚くほど多くの人間がキリスト教徒として登録されているのだ。野にちらばる無教会派や、キリスト教シンパを入れると、天文学的数字になろう。中世のキリスト教国では、人口のほぼ一〇〇パーセントが信者だった。キリストは、人間の霊を統率する最高の存在、まさしく王のなかの王でありつづけてきた。  どんな人間でも九か月の月がみちれば、この世に誕生する。神の子キリストとて、この自然のことわりから無縁ではなかった。熟した実が木から落ちるように、キリストもまた、人間の女性を母とし、ごく自然にこの世に生を享けた。ただ、その誕生は、この暗いみじめな世界を照らす光、やさしさ、神のほほ笑みだった。キリストの誕生とともに、人は神の栄光にあずかる希望を得たのであった。  この世にたとえるものもなき栄光の王、その王がこの世に誕生したとき、まっさきに勝ちどきの声をあげ、まっさきにはせ参じ、最初にキリストにあいまみえるという最高の栄誉に浴したのは、王侯貴族でも高名な神学者でもなく、野に生きる貧しい羊飼いであった。歴史的な事実がどうであれ、少なくとも、中世人はそう信じていた。このことは、キリスト降誕伝説にまつわるもっとも美しい話ではないだろうか。誰よりも先にキリストのためにバースディパーティをひらいたのも、彼らだった。 [#挿絵(img/fig10.jpg)]  ヨークシャーのウェイクフィールドの降誕劇に登場する羊飼いたちをご紹介しよう。  場面はベツレヘム近郊の原野。その年の冬は例年になく厳しく、おまけに、猛威をふるった疫病のためにほとんどの羊が死んでしまい、羊飼いたちは飢えに苦しむ毎日をおくっていた。原野で出会った三人の羊飼いたちは、たがいに思いっきり不満をぶちまけるが、あげくのはてには口論を始める。やがて、ひとりの羊飼いの提案で、午餐の宴を始める。ふしぎなことに、日々の食べものにもこと欠いていたはずの羊飼いたちのポケットや、ずだ袋から、山のようなごちそうが出てくる。 [#ここから2字下げ] 羊飼い二[#「羊飼い二」はゴシック体] とにかく宴会を始めよう。  口論はやめて、おれたちの口に  おまんまをあげようぜ。  とっておきのものを出すぞ。  見ろ、こいつは猪の味つけ肉。 羊飼い一[#「羊飼い一」はゴシック体] 辛子をつけて食うとうまいぞ。  さあ、食おう。  これは牛の足、ソースがきいている。  スパイスをまぶして焼いた雌豚の脚。  レバー入りブラッド・ソーセージ二本。  相棒よ、喜べ。  もっとあるんだ。  牛肉と  腐った雌羊の肉もある。  食いしんぼうにはたまらなくうまい肉。  食えよ。 羊飼い二[#「羊飼い二」はゴシック体] この袋のなかには、ゆで卵と焼肉が入っている。  牛のしっぽもちゃんとあるだろうな。  うれしい、あった。  このパイはうまいから、なくなる前に食っておこう。  それに豚の鼻二つ。  モモ肉なしの兎。 羊飼い三[#「羊飼い三」はゴシック体] こいつはがちょうの脚。  卵黄をまぶした鶏肉に、珍味の山うずら。旦那衆向けの果実入りパイ、こいつはどうだ。  牛レバーのスライスに酸味のきいたジュース。  上等のソース、  こいつがありゃ、  ぐーんと食欲が増すというもんだ。 [#ここで字下げ終わり]  宴会料理には飲みものがつきもの。飲みもののない料理など、スパイス抜きの肉料理のようなもの。羊飼いたちは地酒のエールまで持参している。 [#ここから2字下げ] 羊飼い二[#「羊飼い二」はゴシック体] おい、ヒーリー産のエールがあるぞ。  いいか気をつけろ。飲みすぎると、  悪酔いするぞ。 羊飼い一[#「羊飼い一」はゴシック体] こいつはすごい!  景気づけになる。 [#ここで字下げ終わり]  さきほどの打ちひしがれた様子とはがらりと変わり、羊飼いたちは陽気に酒盛りを始める。  猪の味つけ肉から酸味のきいたジュースまで、何と二十品目が草の上に並べられている。これでもか、これでもかと、次々に料理をとりだす羊飼いたちは魔術師のようだ。『ガウェイン卿と緑の騎士』では、アーサー王のクリスマスを祝う食卓で、二人一組となった客人の前に出されたのは十二皿だったというから、羊飼いたちの宴会は、王侯貴族も顔まけの破格の豪華版だといえよう。焼いたもの、ゆでたもの、焙ったもの、詰めたもの、スライスしたものにペイストリーと、調理法もさまざまだ。  よく考えてみると、ふしぎな午餐だ。まず、極貧に苦しむ羊飼いたちはどうやって、これだけの品をそろえたのだろう。辛子はともかくとして、金《きん》よりも高価なスパイスをまぶして焼いた雌豚の肉など、どこから手に入れたのだろう。彼らの口に入ることはおろか、拝むことさえできない代物だったはずだ。それに、品数の多さにくらべ、足だの脚だの鼻だのと、半端な料理が多くまじっているのも気になる。それもそのはず、草原の食卓のうえには、下層階級から上流階級までの、さまざまなクリスマス料理が並べられているのだ。中世の封建機構のもとでは、クリスマスの料理までが階級によって異なっていた。牛の足、レバー・プディング、豚の鼻は庶民のクリスマス料理だが、猪の味つけ肉、鶏肉の卵黄まぶし、果実入りパイ、牛のレバーは上流階級のクリスマス料理だ。  肉料理の多いことに注目したい。肉のイメージは驚くばかりに豊かだ。西洋文学をひもといて、ウェイクフィールドの羊飼いたちに匹敵するのは、酒瓶片手に、太鼓腹を突きだしながらロンドンのチープサイドをぶらつくフォールスタッフと、食物の区別なぞなんのその、なんでもむさぼり食らうガルガンチュアぐらいなものであろう。彼らの飲み食いの習慣が重要なのではない。好きなだけ食べ、好きなだけ飲むという、物質的豊かさにこめられた理想郷的意味あいが大事なのである。  貴族や金持ちの館のクリスマスの宴には、ふつう、通常の二倍の料理と飲みものがだされた。だが、それらを受けとめる胃袋が突然二倍にふくれあがることはない。当然、余りものがでる。これは、貧しい人に施さなければならなかった。羊飼いたちも、自前の品にくわえて、旦那衆の食卓の残りものの恩恵にあずかったのだろう。あるいは、台所の生ゴミから、めぼしいものを無断で失敬してきたのかもしれない。いずれにしても、羊飼いたちは、料理の階級間の差などにこだわっていない。あれこれの料理をごちゃまぜにして腹に詰めこむ。ようするに、食えるものならば何でもよいのだ。すべてを飲みこみ、すべてを食らう。施しや生ゴミを豪華なクリスマス料理に変えてしまう、こののびやかで自由な発想、階級性にこだわらない平等の精神。彼らのもとでは、階級によって食べ物まで異なる社会機構や、確立された体制や世界観が、みなおかしなものに見えてこないだろうか。そう、ここにつかのま出現するのは、豊かさと自由と平等の理想郷なのだ。中世の庶民の「粗末な豊かさ」をこれほど見事に描きだした場面を、私は知らない。  世をかこつ羊飼いたちが、突如として草原のうえに飲めや歌えの一大饗宴を出現させたことは意味深い。飲み食いの行為は、世界と陽気な出会いをした人間の勝利の凱歌にほかならないからだ。死と隣りあわせに生きていた羊飼いたちは、いまや死に打ち勝ち、生きる喜びをせいいっぱい味わっている。これは、暗い、みじめな世が終わり、希望の時が始まったことの知らせ。祈りと悔悟と断食の時が終わり、飽飲飽食のクリスマスを迎えたことの合図なのだ。  たらふく食べ、たらふく飲みおえたあとの羊飼いたちは別人のようだ。饗宴によって滋養をえた肉体が、不平等と不公平と悪天候に苦しむ世界に打ち勝ったのだろう。食らい、飲み、歌をうたって、心身ともにすこやかになった彼らは、天使に導かれ、キリスト誕生の場に姿をあらわす。そして、王のなかの王のまえにひざまずく。キリストの母マリアは、彼らを祝福する。 [#ここから2字下げ] マリア[#「マリア」はゴシック体] 主の誕生されたことを広く世に宣べ伝えてください。  主は最後まで  あなたがたを護られましょう。 [#ここで字下げ終わり]  苦しみ、泥沼をはいつくばり、社会の最底辺でうごめいていた不満居士の羊飼いたちは、降誕劇の最後では、奇跡の変貌をとげ、何と主の福音を宣べ伝える宣教師に格上げされている。草のうえの一大饗宴は、あの物質的豊かさは、肉体のよみがえりを、ひいては精神の再生を指向していたとはいえないだろうか。あの饗宴は、羊飼いたちが生まれ変わるための儀式だったのだ。ほんとうの物質的豊かさとは、再生と改新へのエネルギーをはらむものでなければならない。この世の悪に打ち勝って勝利の凱歌をあげるには、人と人をへだてる障害をとりのぞき、自由と平等のなかで陽気に食事をしなければならない。饗宴とは、そもそも勝利を祝うものなのだから。そして、饗宴の最大のものこそ、クリスマスなのである。 [#改ページ]   豆とスプーンと北斗七星  クリスマスが近づくと、思いだす絵がある。十六世紀のオランダの画家ヘラルト・ダヴィトが描いた『ミルクスープと聖母』(ブラッセル、ベルギー国立美術館蔵)である。マリアは木製のスプーンでミルク入りのスープをかきまぜている。母マリアの膝に抱かれた幼な子イエスもまた、木製の小さなスプーンを手にしている。ダヴィト以外にスプーンを手にしたイエスを描いた画家を、わたしは知らない。だが、スプーンは、イギリスの中世劇では、大事な小道具だ。 [#挿絵(img/fig11.jpg)]  イギリスの中世の降誕劇に登場する羊飼いたちは、イエスが誕生するやいなや、祝いにかけつけ、さまざまな贈り物をする。チェスターの羊飼いたちが贈るのは、鈴、スプーンとフラスコのセット、それに帽子。ヨークの羊飼いたちは鈴つきブローチ、リボンで結んだハシバミの実二個、豆が四十個すくえる角製のスプーン。『シュルーズベリー写本』の羊飼いも、角製のスプーンを贈る。コヴェントリーの羊飼いたちは、角製の笛、帽子、手袋。ウェイクフィールドの『第一の羊飼い劇』の羊飼いたちは、モミの木の小箱、まり、二クォート(約二・三リットル)入るひょうたん形の水筒。『第二の羊飼い劇』の羊飼いたちは、さくらんぼ一房、小鳥、まり。  帽子と手袋は防寒用。スプーンと、ポリッジを入れるフラスコは離乳食用。鈴、鈴つきブローチ、ハシバミの実、小鳥、まり、モミの木の木箱(豆か石を入れて振るとガラガラになる)は幼児用玩具。ひもに通したハシバミの実をぶつけあい、相手のハシバミの実を割ったほうが勝ちという遊びは、イギリスで今でも見うけられる男の子の遊びである。みな実用的で、素朴な贈り物だ。しかし、これらの贈り物には、深い意味がこめられている。 「角笛」は、長じてから人間の魂の導き手となるイエス・キリストの象徴。イエスはしばしば、みずからを羊飼いにたとえている。あまたの羊の群れをつつがなく導くには、角笛は必需品。  道化の衣装につきものの「鈴」は、イエスにこそふさわしい。キリストこそ、愚か者のなかの愚か者なのだから。「愚か者」に関するキリスト教の教えの土台になったのは、聖パウロのことばだった。パウロは「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と考え、自分を含めた使徒たちを「愚か者」と見なしている。「神は私たち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。私たちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです」(『コリント信徒への手紙一』四・九)。十字架にかけられ、世界中の見せ物になった人間のうち、もっとも愚かなる者はキリストであった。 「ハシバミ」はイエスの人生の豊かな実りのしるし。ケルトの伝承では、ハシバミは神秘的な魔力を持った木だと信じられていた。実は淵に落ち、神聖な魚であるサーモンを養う。ハシバミの実で大きくなったサーモンを一口でも食べると、隠れた味覚を知ることができ、歯には魔法の力が宿るようになると信じられている。イングランドでは、「ハシバミたくさん、子だくさん」といって豊穣と結びつけられている。 「モミの木」はいわずと知れたクリスマスの木。キリストがはりつけにされた木は、モミの木だったという伝説もあった。そのために、モミの木はキリストの生と死の象徴となっている。そのうえ、常緑樹のモミの木は、キリストの復活の象徴でもある。 「まり」の丸い形は世界、ひいては宇宙をあらわす。まりを贈られる幼な子イエスは、全宇宙の主、信仰の長であることのしるし。 「エジプト逃避行」をテーマにした中世の聖画では、ヨセフの背に、あるいは途中で一休みする一家のかたわらに、ひょうたんの水筒がさりげなく置かれていることがある。水なくして、砂漠の旅は不可能だ。瀕死の状態にある人も一口の水によって救われる。したがって、水を貯えるひょうたんは救済のしるし。さらに、ひょうたんは、「知識と智慧の泉」を汲み出すもの。かくして、ひょうたんはイエスの持ち物となる。スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラに祭られた聖ヤコブは巡礼者の守護聖人でもあったが、ひょうたんは聖ヤコブの持ち物にもなっている。中世の巡礼者は、ひょうたんに水を貯えて旅をした。  さくらんぼは、キリストの愛と殉教の象徴(「寝取られ亭主と梨とさくらんぼ」参照)。翼のある鳥は古来より、霊的世界へ飛翔したいと願う人間の願望をあらわしてきた。幼な子イエスがその鳥を捧げられていることは、イエスが人間の霊の世界に君臨する王者であることのしるし、さらに、イエスが死に打ち勝って天国に飛翔することを暗示している。  さて、残るはスプーンとフラスコ。十五世紀のフランドルの画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作『聖母と聖人』(フランクフルト、シュテーデル美術研究所蔵)では、授乳する聖母の両脇に聖人が二人ずつ描かれており、むかって右側の二人の聖人は、それぞれ、フラスコとスプーンを手にしている。フラスコ=瓶は、ひょうたんと同様に救済のしるし、まさに「天の皮袋」(『ヨブ記』三八・三七)だ。  西ヨーロッパでフォークが使われるようになるのは十六世紀の後半以降であるが、スプーンのほうは早くから食卓に姿を見せていた。スプーンは、嫁入り道具のひとつでもあった。母の乳を離れた幼児にとってまず必要な食器はスプーン。チェスターの羊飼いは、「このスプーンでポタージュをお食べください。わたしもしばしばそうしております」といいながら、幼な子イエスにスプーンを贈る。コンラート・フォン・ゾースト作『ヴィルドゥンゲン祭壇画』(一四〇四年頃、バート・ヴィルドゥンゲンのプロテスタント市区聖堂蔵)の降誕の場面では、ヨセフがスプーンを片手にポタージュらしきものを作っている。これもまた、羊飼いから贈られたスプーンなのであろうか。  シェイクスピアの『ヘンリー八世』のなかに、ヘンリー八世が大法官に、「洗礼の贈り物にスプーンをくれとはいわぬから」(五幕三場)、生まれたばかりの王女(エリザベス一世)の名づけ親になってくれと頼む場面がある。この場面からもわかるとおり、子の成長にとって必要なスプーンは洗礼式の贈り物として名づけ子に与えられた。このスプーンは「使徒のスプーン」といわれ、十二本のスプーンの柄に十二使徒の像がきざまれていた。ドイツにも同様の風習が今でもあると聞く。  中世は、演劇であれ、美術作品であれ、そこに描きこまれたものは、たとえどんなに小さなものでも、宗教的な深い意味を持っていた。だが、幼な子イエスに捧げられた素朴なスプーンだけは、たんなる日常品としてかたづけてきた。ところが、「きつね」の研究などで知られる民俗学者吉野裕子氏の「大嘗祭」の講演を聞いて、目からうろこが落ちる思いがした。羅針盤は旅人にとっては方向を知るための必需品であるが、中国最古の羅針盤は匙の形をしており、天の大匙である北斗七星は、古代中国では大帝の象徴であったという。天の大匙(北斗七星)に「食」をのせ、大帝(北極星)に捧げたのであった。この思想は大嘗祭の本質ともなっている。「大嘗祭は、天皇命の根源たる北極星を祭神とする北辰祭祀[#「北辰祭祀」に傍点]であるが、よりくわしくいえば、その供饌のための一連の手つづきとして、食匙型の北斗南斗にまず神饌を輸し送ることに心が砕かれて[#「食匙型の北斗南斗にまず神饌を輸し送ることに心が砕かれて」に傍点]」いる(吉野裕子「思想の言葉」『思想』七七九号)。イエスは、旅の導き手「明けの明星」と呼ばれてきた。まこと、スプーンを捧げられるにふさわしい大帝ではないか。このスプーンにこめられた思想は、中国生まれなのだろうか。とにかく、世界の西と東で同様の思想がはぐくまれていたことになる。理由はいとも簡単。相手が人間であれ、神であれ、「食」こそ、命を養うのに必要不可欠なものだからだ。  スプーンが王のなかの王イエス・キリストの象徴であることを示す証拠として、ダヴィト作のもう一枚の『ミルクスープと聖母』(Bennebroek [Holland] , Baroness C. von Pannwiz Collection) を例にあげよう。構図はベルギー国立美術館蔵のものとまったく同じ。だが、幼な子はスプーンのかわりに、一房のさくらんぼを手にしている。すでに述べたように、赤い実のさくらんぼは、キリストの愛と殉教をあらわしている。宗教画のなかで、イエスが手にするものは、その絵画の一番重要な意味を象徴するが、イエスが手にするスプーンにはまさに、さくらんぼと同じ象徴の意味がこめられているといえる。フォークロアでは、スプーンは豊穣のシンボルだ。柄は男性を、まるいカップの部分は女性をあらわす。幼な子イエスは「豊かな実り」にほかならないから、スプーンを贈られるのにまことにふさわしい。  さて、中世は、客として招かれた場合は、スプーンを持参しなければならなかった。客がよっぽどの貴人でもないかぎり、招いた側の主人がスプーンを用意することはめったになかったからだ。ガウェイン卿が、クリスマスの前夜、ベルシラックの城で招かれたテーブルには、塩入れといっしょに銀のスプーンが置かれていた。スプーンは、鍵のついた食器棚に厳重に保管された。貴重なものだけに、他人のスプーンを失敬したいと思う人も多く、主人側がスプーンを用意したような場合は、客人のひんしゅくを買うことを承知のうえで、食事が終わると、数がかぞえられることもあったという。  マインフランケン作『降誕』では、降誕の場面に到着したばかりの羊飼いのひとりは、帽子にスプーンをさしている。庶民は、こんな風にしてスプーンを持ち歩いたのだろう。十六世紀のイギリスの詩人アレクサンダー・バークリーが、幼な子イエスを訪れた羊飼いを「フェルトの帽子には、木製のスプーンをさしていた」(Alexander Barclay, 'Eclogues', ed. B. White, London, 1928) と描写しているから、イギリスでも、同様の習慣があったことは確かだ。人びとは、爪楊枝も帽子にさして持ち歩いた(「女王様と爪楊枝」参照)。 [#挿絵(img/fig12.jpg)]  スプーンには、木製、金属製、角製のものなど、さまざまな種類のものがあった。柄のところに、家紋や動物などの彫刻がほどこされた美しいスプーンもあった。ロンドンの織物商組合の十五世紀初め頃のスプーンが五本現存しているが、柄には、「スパイスは食卓の王様」で紹介した、織物業で財をなしロンドン市長になったリチャード・ウィッティントンの家紋の装飾がほどこされているという。日常使われるのは、安い木製のスプーン。銀のスプーンは庶民には無縁の存在で、金持ちの家に生まれた者は、「銀のスプーンをくわえて生まれてきた」といわれた。  さて、ヨークの羊飼いが幼な子イエスに贈ったのは、「豆が四十個すくえる」角製のスプーンであった。角製のスプーンは、「金属製のスプーンより重くなく、口につけたときになめらかで、木製のスプーンのようにざらざらしない。ちょっとなめるだけで、きれいになる」と人気があった。  クリスマス最後の日は、東方から三人の博士が祝いにかけつけたことを祝う十二夜。中世・ルネッサンスのイギリスには、十二夜の祝いの席に君臨する王を選ぶのに、豆によるくじびきがあった。配られたお菓子のなかに豆が入っていた人が、王になる。豆はもちろん豊穣の象徴。この王は豆の王と呼ばれた。豆の王は、クリスマスの無礼講の王。喜ばしきクリスマスの最後の晩のどんちゃん騒ぎをつかさどる支配者だ。  豆が四十個もすくえるスプーンを贈った羊飼いは、幼な子イエスを豆の王に選んだことになる。飼葉桶のなかに横たわる貧しい赤ん坊を王に選び、戴冠させたのだ。イエスこそ王のなかの王、という意味が、豆とスプーンの贈り物にはこめられている。  馬小屋の外の世界では、まもなく、「ユダヤ人の王」の誕生を恐れたヘロデ王が幼児虐殺を企てることであろう。だが、羊飼いたちのささやかな贈り物は、ヘロデ王の栄華と栄光がうつろな、はかないものであることを静かに訴えている。 [#挿絵(img/fig13.jpg)]  中世のテーブルマナーの基本は次のようなものだった。テーブルや食器に指の跡をつけてはならない。口に食べ物を入れたまま酒盃に口をつけてはならない。スープは音をたてて飲んではならない。ナイフで歯をほじってはならない。食べ物をさまそうとして、フーフー吹いてはならない。テーブルクロスで口を拭いてはならない。スプーンはきれいに拭き、器に入れたままにしてはならない。皿のなかに指を深くつっこんではならない。骨をしゃぶったり、歯や指で肉を引きちぎってはならない。食卓に着いたら、食べ物以外に指で触れてはならない。頭や鼻を掻いてはならない。つばを吐いたり、ゲップをしてはならない。  フォーマルな席では、料理は二人あるいは四人一組になった客人の前に出され、料理の皿も酒盃も共有だった。おまけに手づかみで食べるわけだから、爪や指の清潔さがことさら要求された。  フィンガーボールというと、今では果物を食べるときにしかお目にかからなくなってしまった。だが、中世の食卓では大活躍した。料理が変わるたびに指も変えるわけにはいかなかったから、その度ごとに指を洗い、ボールの水も換えられた。中世の人びとにとって一番困ったのは、食卓に着いたら、体のどの部分であろうと指で触れてはならないという規則だったのではないだろうか。手洗いに行くなどもってのほか。痒くてもがまんしなければならない。頭髪にも衣装(毛皮の衣装は特に)にも、ノミやダニやシラミがどっさり巣くっていたはずだから、掻くことができないのは、何にもまさる苦行だったことだろう。  食卓で使うスプーンとナイフは(ときにはナプキンとローソクも)、原則として客が持参しなければならなかった。 『カンタベリ物語』の巡礼たちもみな、ナイフを肌身離さず持ち歩いている。ギルドの連中が所持していたのは、柄が銀のナイフだった。羽振りのよい連中だったことがよくわかる。「われわれの仲間には、また一人の帽子屋に、大工に、機織《はたおり》に、染物屋に、家具商がいた。何か偉い組合の団体で、皆お揃いの服装をしていた。彼らの服装の飾りはみんな新調のぱりぱりだ。彼らが所持しているナイフのこじり[#「こじり」に傍点]は真鍮でなく、全部銀で作られ、その細工も実にきれいにできていた」(西脇順三郎訳)。当時のイギリスのナイフの名産地はシェフィールドだった。巡礼のひとり荘園管理人が語る乱暴者の粉屋の所持していたのも、シェフィールド製。「腰には長いナイフに鋭い刀をさしていた。……彼はいつもズボンの中にシェフィルド製のナイフをひそませていた」。ナイフを忘れたりすると、隣の人のナイフを借りた。ナイフの共有は厚い信頼関係のしるし。いわば公共性のあるナイフで爪をけずったり、歯をほじったり、食べ物を口に持っていったりすることはご法度だった。  持参するナイフは、肉がきれいに切れるように、じゅうぶん鋭く清潔でなければならなかった。バターだけはナイフでパンにつけて食べた。ナイフがない場合でも指は使ってはならず、パンのくずをナイフのかわりにした。  客が持参するディナーナイフは、先がとがった細身のものだった。これで肉を骨からはずし、手で口に持っていく。肉汁がしたたり落ちるような場合は、ナイフの先に肉を刺して口に持っていく。ほかに、大きな肉の塊を切るための肉切りナイフがあるが、これは、主人側が用意しテーブルの上に置かれた。お客にディナーナイフを用意する習慣をいちはやく発達させたのは、食においては先進国のイタリアである。  肉切り用のナイフの刃は幅が広くがっしりしていた。肉切りは当時の貴族や紳士のたしなみだった。チョーサーの巡礼のなかに立派な騎士がいたが、彼に付き添っている御曹子も「食卓では父の前で肉切りを勤めた」。宮廷で肉切り役を務めることができるのは、高級貴族の子弟にかぎられていた。中世の細密画などで、ナイフを片手に宴会の席にはべるのは、たいてい豪華な衣装を着た若い騎士だ。中世後期になると、第三のナイフが登場する。新しいナイフは、「プレザントワール」(presentoir) と呼ばれた。その名のとおり、切ったものをのせて客の皿まで運ぶ役のナイフだった。食べ物がのせられるように幅広く、丸い形をしていた。こうして、ナイフの数は増えていくのだが、フォークが食卓に姿を見せるまでには、長い時間を要した。 [#挿絵(img/fig14.jpg)]  フランスでは、シャルル五世(在位一三六四—一三八〇年)が、チーズ焙り用のフォークを所有していたという一三八〇年の記録がある。このときのチーズは、砂糖とシナモンをまぶしたデザートのようなものだったらしい。シャルル王の廷臣たちは、砂糖菓子やワインに浸したパンを食べるのにフォークを用いている。例のビザンティンの姫君が輿入れしたイタリアでは、十五世紀頃から、食卓用のフォークが流行しだした。一五一八年に、フランスの絹織物商のジャック・ル・セージがヴェネツィアでさる公爵家の晩餐に招かれ、「並みいる貴族たちは、食卓で、銀のフォークを使って食事をしている」ことを目撃している。フィレンツェの名家メディチ家のカトリーヌがフランスの王家へ嫁いだのは一五三三年だったが、フォークの流行はいまだフランスにおよんでおらず、フォークが宮廷で市民権を得るのは、カトリーヌとアンリ二世とのあいだに生まれたアンリ三世の時代になってからである。それもアンリがヴェネツィアに旅をしたのちのことだった。気位の高いカトリーヌが、指を脂でぎとぎとさせながら肉を食べる光景は、さぞかし、見ものだったろう。  イギリスで見つかった最古の小型フォークはアングロサクソン時代のものだが、用途はわからない。一二九七年にエドワード一世の持ち物として、一本のフォークが記録されている。だが、現物は残っておらず、これも用途はわからない。ヘンリー八世が、片側にスプーンのついた二またのフォークを所有していたことが知られている。私が知るかぎり、さすがに、シェイクスピアの作品には、食器のひとつとして、「フォーク」は出てこない。と、ここまで筆を進めてきたところ、同僚の鳥越輝昭氏が、勤務先の神奈川大学の図書館におもしろい文献があることを教えてくれた。  一六〇八年、シェイクスピアが世を去る八年ほど前のこと、トマス・コリヤットなるイギリスの文人がヴェネツィアに旅をし、一篇の旅行記『見たまま、聞いたまま』(原題 'Crudities')を残した。神奈川大学図書館所蔵の初版本(一六一一年)には、コリヤットが、そのころイギリスではまだ使われていなかったフォークをイタリアでおぼえ、その習慣を持ちかえったことが記されてある。 [#ここから2字下げ]  私はイタリアである習慣を目撃した。これはイタリアじゅうで見られるものであるが、私が旅をしたどの国でも見かけることはなかった。イタリア以外のキリスト教国で行われているとは思えない。  イタリア人と、イタリアに住む外国人はみな、食事のとき、食べ物を食べやすい大きさに切るのに、フォークを用いる。片手にナイフを持ち、皿のなかの食べ物を切っているあいだ、もういっぽうの手に持ったフォークで食べ物を押さえている。そういうわけで、なんぴとであろうと、食卓についたら、指を食べ物に触れたりはけっしてしない。イタリアでは、そんなことをしたら失礼にあたるし、テーブルマナーに違反する。……フォークは、鉄製、銅製、銀製とさまざまなものがある。……この変てこな習慣は、イタリア人が指で食べ物に触れることを嫌うことから来ている。すべての人間の指がみな清潔だとはかぎらないからだ。私は、このイタリアの流儀を真似るのはいいことだと思い、フォークを手に入れ、イタリアにおいてのみならず、ドイツや、イギリスでも、帰国してからも、しばしば実践してみた。……とうとう、親しい友人のひとりからラテン語で「フォーク使い」の名を頂戴してしまった。 [#ここで字下げ終わり]  コリヤットの「奨励」にもかかわらず、イギリスでは、フォークはなかなか食卓に姿を見せず、アン女王(在位一七〇二—一七一四年)の時代になっても、手で食べるのが正式のマナーだった。  なにゆえに人びとはこれほどまでに指で食べることにこだわったのか。人間は長い歴史のなかで常に、「甘美」なものは直接手で触れて味わってきた。甘美なものの筆頭格はむろん性と食。食物と性には、「指で触れる」快楽という点で相通じるものがあるという(マドレーヌ・P・ゴスマン『中世の饗宴』加藤恭子・平野加代子訳)。  中世人は直接手で触れて食べる醍醐味を知っていた。だからこそ、指で食べることにこだわったのだ。フランスのルイ十四世(在位一六四三—一七一五年)でさえ、フォークを使おうとしなかったというが、フォークを贅沢品と見なしていたからばかりとはいえまい。世界一のエピキュリアンなればこそ、指で食べるおいしさは手放しがたかったのだろう。 [#改ページ]   手洗いの儀式と汚れた手  中世の貴族たちにとって、食前食後の手洗いは、重要な儀式であった。動物たちの宮廷でさえ、宴会は手洗いから始まった。十二世紀後半から十三世紀中頃にかけて、北フランスで書かれた寓話詩『狐物語』に次のような一場面がある。物語の主人公はずる賢い狐のルナール。彼のもとに獅子王ノーブルから出廷命令がくる。ルナールが牝狼のエルサンに淫行をはたらいたとして、エルサンの夫が訴えでたのを手はじめに、動物たちから苦情がでていたためだ。使者にたったのは、熊のブラン。ブランがやってきたとき、ルナールは、朝飯に、脂ののった雌鶏をたいらげ、のうのうと横になっていた。ルナールはブランにいう。 [#ここから1字下げ]  私とて、宮廷に行く筈でしたが、  その前に、すばらしいフランス料理,  これを食べてしまいませんとね……  ブラン殿、あなたはご存知かどうか、  賓客が訪ねて来ると、宮廷では、 『客人、手をお洗い召され』と言います。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](『狐物語』新倉俊一訳)  フォークがなく、盛り皿も酒杯も共有で、スープ類をのぞいて、何もかも手づかみで食べた時代、手の清潔さはことさら重んじられた。手の汚れは、粗野で教養のないことのしるし。手が汚れている者は貴族社会のはみだし者だ。それだけに、手洗いの儀式は、食前の祈りと同じくらい厳粛に行われた。手の汚れのために自滅した人のなかに、マクベス夫人がいる。  濃密な静寂のなか、かすかなともしびが怪しげにちらりと揺らぐ。夜着を着たマクベス夫人がローソクを手にしてあらわれる。ローソクの明かりが夫人の手のしみを照らしだす。夫人の手のしみは、恐れが生んだ幻覚にすぎない。だが、それは真っ赤な血の色をし、なまあたたかい血のにおいがした。夫人は手をこすりあわせる。このしみを何度こすったことか。   消えろ! 忌まわしいしみ、消えろというのに! [#地付き](シェイクスピア『マクベス』五幕一場)  夫のマクベスは、主君を殺した直後、手にべっとりついた血を見ながら、恐れおののき、いった。「海の神大ネプチューンの水をもってしても、この血を洗い流すことはできない」。それに答えて、夫人はこういった。「ちょっとの水があれば、きれいになります」。夫を励ました当の夫人が、落ちない手のしみにとりつかれて破滅する。  夫人は夜の暗やみのなかで手のしみを落とそうとした。だが、真昼間、群衆の見守るなかで、手の汚れを洗い流そうとした人物もいる。イエス・キリストをはりつけにしたローマの総督ピラトだ。ピラトは、ユダヤ人たちが口々に「イエスをはりつけに」と叫ぶのを聞くと、イエスの処刑を決意する。そして、「水を持ってこさせ、群衆の前で手を洗っていった。『この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ』」(『マタイによる福音書』二七・二四)。かくして、イエスは鞭打たれたうえに、ゴルゴタの丘に引きだされる。ピラトはさすがに政治家。マクベス夫人とはちがい、落ちないしみを気にして自滅したりはしない。  いっぽう、手を洗ったために、命を落とした君主もいる。十四世紀のフランスの歴史家ジャン・フロアサールの『年代記』にも登場する、ガストン・デ・フォア伯爵(フォアは南仏アリエージュ川に面した町)だ。「伯爵は、手を洗おうとして立ちあがり、手を伸ばした。冷たい水が伯爵の手に注がれるやいなや、たちまち顔面蒼白となり、心臓が激しく鼓動を打ちはじめた。脚から力が抜け、椅子にのけぞりかえり、こう叫んだ。『おれは死ぬ。神さま、お慈悲を!』」(Jean Froissart, 'Chronicles', trans. G. Brereton, Harmondsworth, 1968)。  食い意地の張った人間の定義は、「手も洗わず、祈りもせずに食にむしゃぶりつく者」。その反対の例としてよく引きあいにだされたのは、やはり、キリストである。十三世紀のイタリアの神学者ボナヴェントゥーラの作とされていた『キリストの生涯に関する黙想録』では、荒野で四十日間断食の修行をしたキリストのもとに、天使がタオルと水差しを持って訪れ、キリストは手を洗ってから食卓につく。十五世紀に出版された『イソップ物語』でも、食前の祈りこそしないが、ねずみたちは、ちゃんと手を洗っている。 [#挿絵(img/fig15.jpg)] [#ここから1字下げ]  ねずみたちが食卓につくと、  食前の祈りはとばして、手を洗い、それから食にありついた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](Robert Henryson, 'Poems', ed. C. Elliot, Oxford, 1963)  荒野のキリストを訪れた天使のように、貴族出身の手洗い係が、手洗い用の水と、二枚の長タオルを持ってしずしずと広間に入ってくる。一枚のタオルは右の肩にかけられ、もう一枚は左の腕にかけられている。手洗いは身分の高い順から行い、最初に手を洗うのは、迎える側の主人か、主賓格の客。方法は、水差しから注がれる水の前に手を差しだす場合と、水盤のなかに手を入れる場合があった。どんなにお腹がすいていても念入りに手を洗い、あわてるあまり水をはね散らかしてはならなかった。しかし、水を注いでもらって手を洗えば、どうしても水がはね散る。そのような場合にそなえて、ふたりの給仕が両脇に控えていることもあった。同じ儀式が、食事の後にも繰り返された。  水盤に手を突っ込む場合は、水とタオルはさぞかし汚れたにちがいない。食事の最中の手洗いもしかり。『作法の書』を出版したウィリアム・キャックストンは、手は水のなかで念入りに洗い、タオルにしみなどつけてはならないと忠告している(William Caxton, 'Book of Curtesye', ed. F. J. Furnivall, London, 1868)。  食前の手洗いのときは、なんとかタオルにしみをつけないですむとしても、食事の最中や食後は、脂のしたたる肉料理を手で食べるのだから、水はたちまち、ぎとぎと脂ぎってくるであろうし、タオルを汚さずにはすまない。とはいえ、紳士淑女はタオルを汚してはならないというのが原則だった。というわけで、レディーのなかには、手練手管を用いる者もいた。事前にちゃっかり腹ごしらえして食卓につくのだ。上品にほんの少し食べ物をつまむだけだから、フィンガーボールのなかに指を入れたとしても、水は汚れず、タオルにしみも残さない(I. Origo, 'The Merchant of Prato')。腹を満たして、かつレディーとしての名があがれば、一石二鳥。婚礼の席の花嫁さんに教えてあげたいような方法だ。  タオル用のリネン地は高価なものだったから、賢明な女主人は、食前の手洗いには上等のタオルを、食間の手洗いには、使い古しのタオルを用意した。客は食事に気を取られているから、タオルが新しいかどうかなど気にすることはまずなかっただろう。  こんな苦労が個人用のタオル、つまりナプキンの慣習を発達させた。だが、それはずっと後の話。十四世紀の頃でもナプキンはまだ一般化されていなかった。  裏で宴会を取りしきる女主人の苦労もさることながら、手洗いの儀式がかくも厳粛なものとあらば、手洗い係もさぞかし気を遣ったことだろう。客に恥をかかせないために、水もタオルも汚れないように気を配らなければならないし、汚れたら、さりげなく取り替えなければならない。湯の温度にも細心の注意をはらわなければならない。夏は冷たい水を、冬は温かい湯を用意しなければならない。フォアの伯爵のような出来事がいつなんどき起きるかもしれないからだ。香りのよい水はことのほか好まれたようで、レシピがいくつか残っている。 [#2字下げ] 手を洗う水を用意する。セージを入れて温め、ちょうどよい温度まで冷ます。セージのかわりに、カミツレ、シソ科のマヨラナ、あるいはローズマリーを使ってもよい。それにオレンジの皮を入れて温めよ。月桂樹の葉もいいが、もったいないかもしれない。 [#地付き]('The Goodman of Paris')  中世の人が手洗いの儀式をこれほど重んじているのには、もちろん手の汚れを落とすという実用的な目的があったが、それと同時に宗教的な面もあったにちがいない。会食とは、「最後の晩餐」が象徴しているように、食べることによって魂を交換しあう儀式である。この儀式に臨むには、もちろん手が汚れていてはならない。そして、魂もまた、汚れていてはならない。だから、水で手を洗う。人びとは水は罪を清める力を持っていると信じていた。アダムとエバが楽園を追放され、地に棲むもろもろの動物が呪われたときも、水のなかに棲んでいた魚だけは神の怒りを買わずにすんだ。ノアの時代、汚れた世界を清めたのも水であったし、人の子は洗礼という水の儀式によって神の子となる。人びとはまた、神の慈悲を乞い願うかぎり、水で清められない罪はないと信じていた。水で手を清めたのちに息を引きとったフォアの伯爵は幸せ者だったといえよう。だが、「ちょっとの水できれいになります」と信じていたマクベス夫人の手のしみは、落ちない汚れとなって夫人を苦しめる。汚れた手を抱えた者は社会の落伍者であり、救いを拒絶された者だ。マクベス夫人は地獄の血の海のなかでのたうちまわったはてに、みずから命を絶つ。 [#改ページ]   チーズと道化  チーズは、アダムとエバの子、アベルの時代に始まったとされる。アベルは羊飼いであった。ローマ時代には、家畜が計画的に飼育され、家畜の乳もたくさんとれるようになったらしく、ローマの貴族は朝食にチーズを欠かさなかった。アピキウスの『ローマ式料理法』にも、チーズを使った料理がたくさん出てくる。そのなかから、誰にでも作れそうなチーズ入り煮込み料理をご紹介しよう。 [#2字下げ] 好みの塩漬け魚を用意する。オリーブ油でいため、骨を取りのぞく。耐熱皿に、茹でた子牛の脳髄、魚の身、チキンの肝臓、固ゆで卵、湯のなかで溶かしたチーズを入れる。それから、すり鉢のなかに、コショウ、セリ科のリヴェッシュ、オレガノ、ヘンルーダを入れてすりつぶし、ワイン、蜂蜜酒、油でのばす。このソースを皿に注ぎ、とろ火で煮込む。できあがったら、つなぎに生卵を入れ、細かくすりつぶしたクミンを散らし、美しく盛りつけて出す。 [#地付き]('The Roman Cookery of Apicius')  アピキウスのレシピには、どれほどの量の材料を用意すればよいのか、どれぐらいの時間火にかければよいのかなどについては、何も記されていない。だが、右の本の編者ジョン・エドワードは、そのほとんどのレシピを試したうえで、現在の調理器具を使った作り方とともに量や時間を記載している。ローマの料理を再現するのも不可能でなくなった。  中世になると、飼育の技術は向上し、チーズの生産量も増え、チーズは肉とほぼ同じぐらい重要な食物になる。十四世紀のイギリスでは、二十頭の雌羊から、毎週、半ガロンのバターと、十四ポンドのチーズがとれたという(Reay Tannahill, 'Food in History', London, 1988)。当時の羊の数は、イギリス中でおよそ八百万頭。これは、当時の人口の三倍。三頭の羊が一人の人間を養っていたことになる。それから三百年後には、イギリス人は羊の乳には見向きもしなくなっている。チーズの原料も、乳牛にとってかわられた。  タルト、チーズパイ、チーズビスケットなど、今でもわれわれに馴染みの深い菓子は中世生まれだ。イギリスのパブ(居酒屋)に行くと、かならずお目にかかる昼食に、「プラウマンズ・ランチ(Ploughmanユs Lunch)」というのがある。パンにチーズの塊と野菜を添えた素朴な一皿だ。かならずといってよいほど、「野菜」のなかにはたまねぎが含まれている。「チーズとたまねぎ(あるいはにんにく)」ということわざ的ないいまわしは、貧しい食事の代名詞となっていた。また、「粉ひき小屋でチーズとにんにくを食って暮らす」(シェイクスピア『ヘンリー四世第一部』三幕一場)は、人間の最低の生活を意味した。  富裕な家庭の食卓では、今と同様に,最後にチーズが出されたが、これはチーズが消化を助けると信じられていたためである。「おい、おまえはおれの消化を助けるチーズなのに、どうして食事のときに姿を見せなかったのだ」(シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』二幕三場)。  処女はチーズにたとえられもしたが、「処女とはチーズのごときもの、虫がわいて、固い皮だけ残して食い荒らされる」(シェイクスピア『終わりよければすべてよし』一幕一場)などは、今だったらフェミニストの攻撃に遭うだろう。  野良で働く農夫たちは、チーズとにんにくの素朴な弁当を携えていった。そして、肌身離さず持ち歩いているナイフでチーズを切り、パンといっしょに食べたのであろう。そういえば、独身男の食事はパンとチーズと接吻といういいまわしもある。現代のテーブルマナーでは、食べ物をナイフで口に運ぶのは行儀が悪いとされている。だが、チーズだけは例外。今でも、チーズを食べるときだけは、フォークを使わず、ナイフを使う。これも、中世の作法の名残りなのだろうか。  さて、わたしの気にいりの中世細密画のひとつに、裸同然のみすぼらしい男が子どもの頭ほどあるチーズを丸かじりする絵がある。パリ国立図書館所蔵の『ベリー公の詩篇書』(一三八四—一四一一年頃制作)のさし絵のひとつだ。ちぎれたボロボロの衣装は白。男が右手に持っている杖は、道化棒ともとれるし、羊飼いの杖ともとれる。なんとも不思議な絵だ。王侯貴族のために制作された中世の豪華な詩篇集では、「愚か者は心のなかで神はいないといっている」で始まる詩篇第十三篇と第五十二篇(現行聖書では十四篇と五十三篇)に、かならずといってよいほど道化の絵が添えられた。この絵もそのひとつ。道化というと、道化棒を手に、先のとがった鈴つきずきんをかぶり、まだら模様の上着を着て、タイツに似たズボンをはいた姿を思い起こす。しかし、これは十四世紀の終わりごろからの傾向で、それ以前の道化は裸か半裸が主流だった。それには次のような理由がある。 [#挿絵(img/fig16.jpg)]  中世には、日ごろの階級や秩序を忘れて馬鹿騒ぎすることを許された道化祭があった。このとき、聖職者も俗人も、生まれたときの状態に戻って気ままな遊びにふけった。道化祭の目的は価値の転倒にある。権力の座に座るものはその座から降ろされ、また低い地位にあるものは引きあげられる。この遊びは『ルカによる福音書』の聖句にもとづく。「主は、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引きあげ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たないまま追い返されました」(一・五二—五三)。裸の道化にはこの風習が反映されている。そのうちに、笑いを職業とする道化が道化祭の先導を務めるようになり、詩篇集でも着飾った道化が主流を占めるようになる。裸であろうと、着飾っていようと、道化が伝えようとしているメッセージはひとつ。傲慢の罪をいましめようとしている。  キリスト教でいう最大の罪は傲慢。傲慢は、内面と外面の両方の形であらわれると考えられていた。ひとつは身を飾ること。もうひとつは、身を露出することである。裸の道化と着飾った道化は、傲慢の両極端なふたつの形をあらわしているといえよう。  体を覆うものにもこと欠き、からっぽの腹をかかえた乞食も、道化祭のときばかりは、気前のよい施しにあずかった。写本の男が、大きなチーズにかぶりついているのも、ゆえなきことではない。当時のきどった社会では、チーズの丸かじりは顔をしかめられた。野原でチーズとパンの昼食をひろげる農夫や、ナイフも持たぬ乞食の作法と思われたからであろう。  さし絵の男が形ばかり体を覆っている白い衣装にも、深い意味がある。イエスは、ユダヤ人に告発されて裁判にかけられたあと、裸にされ、鞭打たれ、腰布一枚まいただけの姿でゴルゴタの丘に引きだされた。イギリスのヨーク市に伝わる受難劇では、イエスはピラトの法廷で、白い衣装を着せられて嘲笑される。白は簡素と無垢の色。この世に財を蓄えることなく、ひたすら笑われることを天職とした道化は、しばしば白い衣装を着た。ピラトも、被告人のイエスを道化に見たて、嘲笑するために白い衣装を着せた。だが、その結果はどうだろう。皮肉にも、白い衣装はイエスの無実を訴えるものとなっている。  白い衣装とチーズというと、イギリスのグロスターシャーで今でも行われている「チーズころがし」の風習を思いだす。復活祭後の第七番目の日曜日は、聖霊降臨日。この日には洗礼が行われ、受洗者が白衣を着ることから、白衣の日曜日とも呼ばれている。その翌日は、法定休日。この日、ブロックワースのクーパー丘の上に村の若者たちが集まる。白い上着を着て、色リボンで飾られた帽子をかぶった儀式長が、若者たちのなかから選ばれた代表者にチーズを手渡す。代表者は「ワン、ツゥー、スリー」といってチーズを丘からころがす。「フォー」を合図に、若者たちは、チーズを追っていっせいに駆けだす。一等の賞品はもちろんチーズ。  チーズもまた、イエス・キリストの象徴だ。中世の神学では、兄のカインによって罪なく殺されたアベルはイエス・キリストの前ぶれの姿であるとされた。旧約聖書のなかでもっとも尊敬されたダビデ王は羊飼いの出身。イエスはそのダビデを祖とする。イエスも、自分自身をよき羊飼いにたとえている。そして、神の子イエスの生命を養ったのはチーズにほかならなかった。  人間の子どもにかぎらず、あらゆる哺乳類は、この世に誕生するとまず、母の胸をまさぐり、乳を飲む。いうまでもなく、乳は生命をはぐくむ源泉だ。神の子とて、変わりはなかった。預言者イザヤは、イエス・キリストが生まれるずっと以前に、乙女から生まれる男の子が救い主となり、「凝乳」と「蜂蜜」を食して大きくなると予言した。エジプトを脱出したイスラエル人たちは、荒野で暮らす苦難の日々を凝乳と蜂蜜で命をつないだといわれている。凝乳とは今でいうチーズだ。  羊飼いの杖を手にする裸の道化がチーズにかぶりついている。イエスがキリスト教最大の愚者であることは、「豆とスプーンと北斗七星」の項ですでに述べた。とすると、道化=羊飼い=イエスという図式が浮かんでくる。三者を結びつけているのは、チーズ。ボロをまとい、チーズにかぶりつく写本の男は、ほかならぬイエス・キリストの姿をあらわしていることにもなる。  イエス・キリストと愚者である道化の混在。世界の救い主、王のなかの王と乞食の同一化。ものの見事に価値を相対化してしまうダイナミックな思想ではないか。 [#改ページ]   果物の王様、オレンジとレモン  八百屋の店先にさまざまな種類の柑橘類が並びはじめると、私はいつもイギリスのエリザベス二世のことを思ってしまう。子どもの頃に女王様の少女時代の物語を読んだ。ある年に、御両親からいただいたクリスマス・プレゼントはオレンジ数個だった。それを大事に大事に何日もかかって召しあがったという。わが故郷もイギリスと同じ北国。とはいえ、お正月になると箱一杯のミカンを食べることができた私は、イギリスという憧れの国のお姫様がオレンジを大事そうに胸に抱える姿を想像して、ひどく同情した。イギリスでは、中世からほんの先ごろまで、柑橘類は王侯貴族か金持ちの口にしか入らない贅沢品だったのだ。  今でこそ、イギリスの八百屋やマーケットには、イベリア半島や南ヨーロッパ、中近東から運ばれてきたさまざまな柑橘類が並んでいる。だが、ヨーロッパ共同体、いわゆるECに加わる前は、店頭に並ぶ柑橘類の種類は少なく、値段も法外に高かった。昨今は、日本のミカンに似た、サツマという小ぶりのミカンが、そのやさしい甘さでイギリス人に好まれている。本当か嘘かは調べてみたことがないのでわからないが、薩摩産のミカンの木をスペインのとある業者が輸入して根づかせ、ヨーロッパ各地に輸出するまでになったのだという。  中世では、米、砂糖とともに、干し果物もスパイスと見なされていた。スパイスと同様に、遠方からのめずらしい果物で客をもてなすことは、一種のステイタス・シンボルとなっていたから、仰々しいセレモニーを伴って食卓にあらわれた。干しぶどう、ナツメヤシ、イチジクなどの乾燥果物は、果物や野菜が不足する冬や四旬節にはなくてはならないものだったから、輸入量はけっこう多かったようだ。王様の食卓にすらめったにのぼらないほどの高級品は、何といってもオレンジとレモン。もっとも早い記録では、今のエリザベス二世からさかのぼることおよそ八世紀の一二九〇年に、時の王エドワード一世の妃、エレアノールがポーツマスに入港したスペインの商船からレモンを十五個とオレンジ七個を買ったことが、王家の帳簿に記されている(A. Strickland, 'Lives of the Queens of England', Philadelphia, 1893)。エドワードは、欠地王として「名高い」ジョン王の孫にあたる。カスティリア王家の姫君であったエレアノールは、オレンジとレモンのさわやかな香りをかぎながら、太陽の燦然と降り注ぐ故郷の野山に想いをはせたことであろう。同じ頃、スウィンフィールドの司教リチャードの執事が、クリスマスの宴会用にレモンを購入している('The Household Accounts of Richard de Swinfield', ed. J. Webb, Westminster, 1854-55)。  十五世紀頃になると、干し果物やオレンジ類は金持ちの織物商の手に入るくらいの値段にはなっていたようだ。ロンドンのとある金持ちの織物商が、美人の未亡人に恋をした。三年のあいだ、せっせと愛の言葉とともに高価な贈り物を贈り、求婚し続けた。だが、その努力もむなしく、未亡人はついに首をたてに振らなかった。商人は帳簿を広げてため息をつく。恋の虜となるあまり、何と、「イチジク、干しブドウ、ナツメヤシ、アーモンド、干しスモモ、それにザクロやオレンジといった珍味に」六ポンドもの大金をつぎこんでしまっていたのだ(T. Thrupp, 'The Merchant Class of Medieval London', Ann Arbor, 1962)。例のまぬけなヨークシャーの羊飼いたちが誕生祝いに六ペンスを贈った(「オムレツとプリンが戻ってくる日」)のとほぼ同時代であるから、同じ換算でいくと、六ポンドは労働者の一年分の賃金に相当する。  オレンジが少しは庶民的な果物になってきた証拠をもうひとつご紹介しよう。『十五世紀の教科書』('A Fifteenth Century School Book') には、父が送ってきてくれた梨を兄に食べられてしまい、復讐を誓う生徒の赤裸々な声が記されている。「父が兄と僕に梨を送ってくれた。でも、僕の留守に兄がおいしいところを全部食べてしまった。こんど、父がザクロかオレンジを送ってきたら、きっとこの仕返しをしてやる」。この頃は、子弟をパブリック・スクールに送ることができるほどに裕福な人ならば、オレンジを買うことができたのであろう。  人びとのかくも熱き羨望と憧憬の的だったオレンジとレモン。初めてイギリスに姿を見せたのはいつごろだったのだろう。少なくともエレアノール妃の買い物が記録される以前、東方への巡礼熱が高まった頃だったのではないだろうか。それを暗示するような童謡がある。 [#ここから2字下げ] Oranges and Lemons, Say the bells of St. Clementユs... [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] 「オレンジとレモン」、  と聖クレメント教会の鐘がそういいます。 「あなたは私から五ファージングの借りがある」、  聖マーティン教会の鐘がそういいます。 「いつ返してくれるの」、  オールド・ベイリーの鐘がそういいます。 「大きくなってから」、  ショアディッチ教会の鐘がそういいます。 「それは何時?」、  ステップニーの鐘がそういいます。 「わからないわ」、  ボー(チープサイドの St. Mary-le-Bow)の鐘がそういいます。  さあ、おまえを寝床に案内するローソク(を持った人)がやってきた。  ほら、おまえの首を切る首切り役人がやってきた。  最後の、最後の、最後の……最後の人がこれだ。 [#ここで字下げ終わり]  子どもたちが、ふたりのリーダーが両手をあわせて作ったアーチのしたを歌いながらくぐる。リーダーは歌の最後のところ、「最後の、最後の、最後の……」にくると、腕をふりおろし、くぐり抜けようとする者をつかまえる。そして、「オレンジ」側につくか「レモン」側につくか訊ねる。全員の所属が決まるまで、遊びをくりかえす。子どもたちが「オレンジ」と「レモン」の二チームに分かれたところで、綱引きがはじまる。 「オレンジ」とは、一〇六六年にイギリスを征服したノルマン貴族、ウィリアムのことであるとの説がある。とすると、「レモン」は、ノルマン人に対抗したサクソン人を指すのであろうか。ノルマンとサクソンの確執は、サー・ウォルター・スコットの『アイバンホー』(一八一九年)にも詳細に描かれているように、第三回十字軍(一一八九年)の英雄としてその名をはせたリチャード獅子心王の時代にいたっても、いっこうに鎮静化しなかった。「オレンジとレモン」には、ノルマン征服と国王の十字軍遠征という、十二世紀のイギリスをゆるがした二大事件の影が感じられる。  いつかは定かではないが、とにかく、ノルマン征服以後、オレンジとレモンがイギリスにやってきた。港に着くとガレー船から平底船に移され、テムズ川をのぼり、ロンドンの聖クレメント・デーンズ教会の庭近くに陸あげされた。それから宿場を兼ねたクレメントという名の旅籠で通行料を払って、クレア・マーケットに運ばれた。以来、元旦には、オレンジ荷の付き添い人は、クレメント旅籠の泊まり客をひとりひとり訪れては、オレンジとレモンを配り、御祝儀をもらうのが慣わしになったという。  オレンジとレモンがイギリスの地を初めて踏んだことを祝うこの慣わしは、いつのまにかすたれてしまったのだが、戦後の一九五七年三月三十一日、ちょっと変わった形で復活された。爆撃で被害を受け、しばらく鳴りをひそめていたストランドの聖クレメント・デーンズ教会(ただし、マザーグースの「聖クレメント」がイーストチープの聖クレメント教会なのか、聖クレメント・デーンズ教会なのかは定かではない)の鐘が補修されて、ふたたび美しい音を奏で始めたのである。それとともに、子どもたちによるかわいらしい儀式が行われた。近くの小学校の子どもたちが教会に集まり、簡単な礼拝と賛美歌の合唱を終えたのち、振鈴にあわせてマザーグースの「オレンジとレモン」を歌いながら遊んだ。以来、その行事は今日まで続けられている。 [#改ページ]   りんごの花びら  昭和が終わり、平成の新しい時代が始まったと思ったら、昭和とともに生きた不世出の歌手、美空ひばりが急逝した。連日、ラジオやテレビからヒット曲のひとつ、「リンゴ追分」が流れてくる。「りんごの花びらが風に散ったよな、ああ……」。  りんごの花びらは春のさきぶれだ。小さく可憐な白い花は、花嫁にこそふさわしい。「風に散ったりんごの花びら」は、失った愛の悲しみをあらわしている。  旧約聖書をめくっていて『雅歌』のなかに、ヨーロッパ版「リンゴ追分」を発見してびっくりした。キリスト教文化圏最古のりんごの歌が、やはり乙女が唄う愛の歌であるのは偶然の符合であろうか。 [#ここから1字下げ]  若者たちの中にいる私の恋しい人は  森の中に立つりんごの木。  私はその木陰を慕って座り  甘い実を口にふくみました。  その人は私を宴の家に伴い  私の上に愛の旗を掲げてくれました。  ぶどうのお菓子で私を養い  りんごで力づけてください。  私は恋に病んでいますから。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](二・三—五) 『雅歌』の乙女は恋人をりんごの木にたとえている。つねに成長し、葉を失ってもふたたびそれを獲得する樹木は、古代より生命のシンボルとなってきた。また、木は男性原理をあらわす。そして、その木に実るりんごは、成熟した女性の性的な欲望の象徴でもある。『雅歌』の花婿は花嫁に願いをこめていう。「あなたの乳房はぶどうのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ」(七・八)。  古代には、男女が木の下で交わる風習があった。『雅歌』の花嫁は、顔を赤らめもせず、花婿を木の下に誘う。 [#ここから1字下げ]  りんごの木の下で  私はあなたを呼びさましましょう。  あなたの母もここであなたをみごもりました。  あなたを産んだ方もここであなたをみごもりました。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](八・五)  旧約聖書の『ホセア書』によると、イスラエル人たちはタンムズ神の祭儀のおりに木の下で淫行を繰りひろげたという。「わが民は木に託宣を求め、その枝に指示を受ける。淫行の霊に惑わされ、神のもとを離れて淫行にふける」(四・一二)。  りんごとは切っても切れない間柄にあるのは、愛の女神アプロディテである。誕生の次第からして、アプロディテは愛と多産の女神にふさわしい。大地の母ガイアは息子ウラノスと交わり、宇宙の最初の種族の十二の神々を産んだが、ウラノスは子どもたちを嫌い、大地の奥深い所に隠した。ガイアはこれをうらみ、末っ子のクロノスに父殺しを命じる。クロノスは眠っている父を襲い、性器を切りとり、海へ投げこむ。それは海面に浮かんで白い泡を生じ、その泡からアプロディテが生まれた。西風に送られてキプロスへ上陸したアプロディテは、オリュンポスの神々の集まりに連れていかれる。神々は、輝く金髪、白銀色の肌、優雅な立ち居ふるまいの彼女に心をかき立てられた。それを見たほかの女神たちは嫉妬にもえ、アプロディテと美を競う。世界最古の美人コンテストだ。誰もが、オリュンポスの最高女神、ゼウスの妻ヘーラーの頭上に栄光の王冠が輝くと思っていた。だが、美の審判者に選ばれたトロイアの王子パリスは、「もっとも美しいものへ」と彫りこまれた黄金のりんごをアプロディテに渡す。というのも、アプロディテがチュニックの留め金をはずし、帯の結び目をほどき、こうパリスに約束したからだった。「人間のなかでもっとも美しい女を与えよう」。「人間のなかでもっとも美しい女」とは、ギリシアの姫君ヘレネーであった。ギリシアを訪れたパリスはヘレネーに恋をする。だが、ヘレネーにはメーネラオスという夫がいた。世界でもっとも美しい女性に目の眩んだパリスは、ヘレネーをトロイアに連れさる。かくして、かの有名なトロイア戦争が始まった。神々一の美女になりそこねたヘーラーは、もちろんギリシアの味方をする。トロイアの民の滅亡は、まさに一個のりんごとともに始まった。  素晴らしい細工がほどこされ、巧みに縫いとりされたアプロディテの帯には、「愛、欲望、戯れ」が入っており、神々の心も人間の心もたちまち虜にした。夫や恋人のきまぐれな愛を取りもどそうと願うものはみな、アプロディテのライバルでさえ、彼女のもとを訪れた。パリスに続いて、奈落の底に落ちるとも知らずに、チュニックの留め金をはずし、帯の結び目をほどくアプロディテを目にした若者の数は、さぞかし多かったであろう。 「リンゴ追分」の作者が意識していたかどうかは知らないが、ヨーロッパでも、古来より、りんごは愛の象徴だったのだ。いまだに、恋占いにりんごが用いられているのも、これでうなずける。イギリスには,こんな風習が伝わっている。たらいにりんごを浮かべ、たくさんのなかからひとつを口にくわえる。そのりんごの持ち主が恋人となる。りんごをひもに吊るす場合もある。  さて、ギリシアの神々は滅び、世はユダヤ・キリスト教の時代に突入する。りんごを食した最初の人間はエバである。  エデンの園の真ん中に、木が二本立っていた。生命の木と、善悪を知る知恵の木だ。神がアダムに「決して食べてはならない。食べるとかならず死んでしまう」(『創世記』二・一七)といって禁じたのは、知恵の木のほうだった。悪魔はこういってエバを誘惑する。「けっして死ぬことはない。それを食べると、目が開かれ、神のように善悪を知るものとなる」(三・四)。  神は、不思議なことに、楽園の中央に植えられた生命の木については何の注意も与えていない。知恵の木と単に同種だったのだろうか。もし、別種の木であったとしたら、なぜ神は肝心の生命の木について沈黙しているのであろう。悪魔はなぜ、知恵を与えるにすぎない木の実を食べるようにアダムとエバに勧めたのか。民族学者のミルチャ・エリアーデはこういっている。「蛇自身不死を獲たかったのである。……そしてエデンの園のすべての木の間からかくされている生命の木を発見する必要があった。……これが蛇がアダムに『善悪を知ること』を強く主張したゆえんである。アダムはその知識をもってどこに生命の木があるかを蛇にあかすだろうからだ」(『大地・農耕・女性—比較宗教類型論』堀一郎訳)。  古代のバビロニア人たちも、天の東の入り口に真理の木と生命の木があると信じていた。イスラエル人たちが、バビロニア幽閉という苦難をなめているあいだに(前五九七—前五三八年)、バビロニアの楽園思想に影響されたことはじゅうぶんにありうる。  聖書には、「知恵の木」が何の木であったか記されていない。しかし、ヨーロッパの中世人たちは、りんごにほかならないと信じていた。十五世紀のイギリスのある匿名の詩人はこう歌っている。 [#ここから1字下げ]  アダムは縛られて  罪の呪縛に身を横たえた。  かくして過した四千年の冬を  アダムは長いとは思わなかった。  すべては、戯れにとった  あのりんごの木の実からはじまった。 [#ここで字下げ終わり] [#挿絵(img/fig17.jpg)] [#地付き](『妖精の女王』)  とすると、善悪を知る木=りんご=生命の木という図式が浮かんでくる。もういちど、りんごの木を求めてギリシアの神々の時代にさかのぼってみよう。かのヘーラーがゼウスと結婚したときに、大地の女神はそれを祝して楽園を贈った。ヘーラーとゼウスはこの楽園を、天空を双肩にになう巨人アトラスの娘たち、すなわちヘスペリデス四姉妹に守らせた。この楽園には、黄金のりんごの木があり、四姉妹は、冥界の知恵の竜ラドンの助けをかりて、この木を守っていた。このりんごの木は生命の木であり、知恵の木でもあったのだ。  生命の木は不死をさずけるが、それを手に入れるのは容易ではない。たぐいまれなる英雄のみが挑むことのできる冒険だ。バビロニアの英雄ギルガメシュは不死の草を求めて海の底にまで出かけた。若返りのりんごを持つ春の女神イドゥンからりんごを奪うのは、北欧の巨人ティアジだ。知恵の竜を退治してヘスペリデス四姉妹の守るりんごを見事手に入れるのは、英雄ヘラクレスである。  ヘスペリデスの園のりんごの木のように、中世人たちは、エデンの園の禁断の木をりんごの木とすることで、楽園の二本の木、知恵の木と生命の木の意味をあらわそうとしたのだろう。  多くの中世の絵画が証明しているように、人びとはエバが食したのは、赤いりんごだと信じていた。赤いりんごを食したエバは愛の蜜を知る者となる。あのイシュタルのように。「この世でもっとも美しい女が愛をつくった。イシュタル、彼女こそはリンゴとザクロの実(これらの果実は催淫の評判が高かった)をふかく味わい、欲望を生みだした。昇り、降りよ、愛の石」(ジョルジュ・デュビー他『愛とセクシュアリテの歴史』福井憲彦・松本雅弘訳)。純潔を捨て、アダムと結ばれたエバは、今にいたるまでの無数の子らの母となる。以来、白(純潔)と赤(情熱)が人間の物語、昔話や神話をいろどってきた。  白雪姫は「肌が雪のように白く、唇が血のように赤い」少女であった。お妃は、手にしたりんごをふたつに切って、白いほうは自分が食べ、赤いほうを白雪姫にわたした。白雪姫はひとつの選択をせまられる。命にかかわるほどの重大な選択だった。  りんごの赤さは、血と同じように、性的な連想を誘う。毒を盛られて赤くなったりんごが象徴しているように、性の甘美さは、つねに死と隣りあわせだ。エバは、楽園での永遠の命のかわりに、甘美な果実を選び、死の闇に突入していった。白雪姫もまた、赤いりんごを選ぶ。彼女を待っていたのは、やはり死の闇だった。  子どもにりんごの絵を描かせると、赤く塗りつぶす。りんごは女性の乳房をあらわし、赤いりんごは母の胸をあらわすからだ。かつてその胸に抱かれた頃の思い出が、意識はせずとも、子どもの心のなかにあるからだろう。ひところ一世を風靡した流行歌の歌詞がいみじくも暗示しているように、人はいつだって「赤いりんごに唇をよせたい」のだ。  性的に成熟した女性を形容するのに、りんごほどふさわしい比喩はない。チョーサーの『カンタベリ物語』「粉屋の話」をのぞいてみよう。夫の留守に大学生を寝床に誘うなまめかしい若妻アリソンの口は、「蜜のように、蜜酒のように甘く、あるいは枯草やくさむらに貯蔵したりんごのように甘味があった」。哀れにも、男に食指を動かされなくなった女性を形容するシェイクスピアのせりふがふるっている。「腐ったりんごを食べたがる男はまずいないでしょう」(『じゃじゃ馬ならし』一幕一場)。  古代のケルト人もりんごが好きだった。彼らの楽園の中央に陣どるのも、聖なるりんごの木であった。アーサー王の円卓の騎士のひとり、ランスロットはつぎ木されたりんごの木(実は赤い)の下で眠っているときに、四人の妖精の貴婦人にさらわれる。|中世の騎士物語《ロマンス》『オルフェオ王のロマンス』でも、女主人公のメロディスは、りんごの木の下で眠っているときに妖精王にさらわれる。ケルトの英雄のひとり、瀕死の重傷を負ったアーサー王が小舟で運ばれるのは、りんごの島、アヴァロンという妖精の国である。りんごは生きる喜びの象徴。不死や治癒、回春の力を持つと信じられていた。  ケルトの妖精たちが好んだ実のなかに、サンザシの実(thorn apple) や、ナナカマドの実(sorb apple) がある。ともに、りんご(apple) の名をいただいている。白い花を咲かせ、赤い実をつけるトネリコも妖精好みの木だ。緑のほかに、妖精の世界を染めあげるのは、白と赤。りんごの白い花は、ことのほか好まれた。妖精の女王は、しばしば「五月のサンザシの花よりも白く、汚れない」とも描写される。春になると、白いりんごの花が咲き、秋が来ると、赤い実で染まる妖精の国は、死もなく老いもなく、饗宴と幸福の桃源郷である。  一二二〇年から九二年ごろにかけて、スコットランドにエルセルドーンのトマスという詩人がいた。ある日のこと、トマスは、草の茂る川岸で横になっていた。すると、美しい貴婦人があらわれた。誘われるままに、トマスは貴婦人の白い馬のうしろに乗り、海や川を横ぎり、風のように休みなく走り続けた。四十日のあいだひたすら駆けたすえに、緑なす草むらにたどりつく。ふと見ると、りんごの木に実がなっていた。トマスは、貴婦人の差しだすりんごを口にする。そのとたん、真実を語る力と、予言の能力と、詩の才能がからだじゅうにみなぎってきた。妖精国から帰還したトマスは、高名な予言者になったという。  愛と豊穣の秘密を秘めた魔法の果実のりんごとて、裏切りに対しては、復讐の危険な食べ物となる。神の命令にそむいてりんごを食し、楽園を追われたアダムとエバの例は、持ちだすまでもないだろう。  十二世紀に、音楽にあわせて歌い語られる、ブレトン・レイとよばれる短い物語詩がフランスとイギリスで流行した。そのなかのひとつに「ギンガモール」と題する作品がある。白猪を求めて森をさまよい歩くギンガモールは、たぐいなく雅びな乙女に出会う。その美しさにうたれたギンガモールは、乙女に愛をささやく。乙女は喜んで愛を受けいれましょうとこたえ、緑の大理石の城壁にかこまれた立派な城に案内する。三百人ほどの騎士が、それぞれ意中の貴婦人を連れて迎えにでていた。乙女は妖精の国の女王だったのだ。すばらしいもてなしを受けるうちに、夢のような三日間がすぎ、ギンガモールは妖精の女王にいとまごいをする。女王は、いつでも好きなときにおもどりください、ただし、川をわたってあちらの国に行ったら、ここにもどるまで、けっして飲んだり食べたりしてはいけません、ときつく警告して恋人を送りだした。  ふるさとに帰ったギンガモールは驚いた。様子がすっかり変わり、伯父にあたる王様も家来もみな死に、宮廷はあとかたもなくなっていた。ゆきずりの炭焼きにたずねると、王様が死んでから三百年にはなるという。悲しさで胸がいっぱいになったギンガモールは、妖精の国に引きかえそうとする。だが、途中、空腹に耐えきれず、道ばたに生える真っ赤な野生のりんごを三個食べる。たちまち、体中から力がぬけ、ギンガモールは老人になってしまう。  美しいもの、甘いものには毒があるという。そうはいっても、毒を食らわば、皿のみならず、地獄までも、と突っぱしらずにおれないのが、人間の業なのであろう。  中世の絵画でりんごを手にするのは、エバならぬ幼な子のイエス・キリストだ。イエスのりんごは、人間を死の闇に誘う欲望を征服したことの象徴。アダムとエバはりんごの甘美さに負け、楽園を追われた。だが、イエスはりんごをその手ににぎり、征服することによって、楽園を回復した、この絵画はそう告げている。 [#挿絵(img/fig18.jpg)] [#改ページ]   女王様と爪楊枝  食事のあと、人前で歯をほじるのは、食後の御手洗い行きと同様に、行儀の悪いこととされている。ましてや、なかのものを風で吹きとばそうと、歯をスースーいわせるなどもってのほか。とはいうものの、食べカスが歯にはさまったままでは、気が気ではない。どんなにおいしいごちそうを食べたとて、楽しさが半減する。食卓はいうにおよばず、駅弁にまで爪楊枝が添えられているのも、食後をゆったりとした気分で過ごすためだ。何という繊細な気くばりだろう。上品な人は爪楊枝をさりげなく取り出し、片手で口を隠しながら歯をほじる。さっぱりしたあとは、ほじったことなどそ知らぬふりをすることが肝心。これも御手洗いと作法は同じ。  不思議なことに、イギリスに五年近く住んだ経験があるが、そのあいだに、爪楊枝で歯をほじる人を見かけたことはない。だいたいにおいて、レストランであろうと、個人の家であろうと、人目につくところに爪楊枝など置いてはいない。もっとも、近頃では、機内食にお手拭きといっしょに爪楊枝がついてくることがあるけれども。これは、日本風行儀作法の影響であろう。イギリス人が特別に歯並びのいい国民だという話は聞かないし、彼らとて、食べカスが歯にはさまることに変わりはあるまいに。  爪楊枝がイギリスの文献に顔を見せるのは十五世紀の終わりごろ。十六世紀になると、俄然脚光を浴びる。砂糖の需要が増え、穴のあいた歯を持つ人が増加したためだ。十六世紀のイギリスというと、あのでっぷり太ったヘンリー八世と、全身を宝石で飾りたて、スカートに張り骨の入った華麗な衣装のエリザベス一世の肖像画を思い浮かべる。クリストファー・マーローやシェイクスピアといった不世出の劇作家を生んだ時代でもあった。音楽や演劇がめざましい発展をとげたのとは対照的に、宮廷の食卓を飾る品々は中世とたいして変わらなかった。スパイスのきいた焼き肉とゆで肉の山。アヒルやガチョウや山ウズラといった鳥肉料理、魚、ミルクで煮こんだ小麦の粥、パン、エール、ワイン、それにほんの少々の果物と野菜。だが、よく見ると、珍しい品がならんでいる。メキシコのトマト、ペルーのインゲンマメ、チリーやアンデスのポテト、メキシコ原産の七面鳥。新大陸の発見は食卓にも影響をおよぼしている。  十六世紀の食卓の一大異変は、何といっても、砂糖の大量消費であろう。十字軍兵士がトリポリ領で発見した中東のさとうきび、別名「蜜の葦」がヨーロッパ人が知った最初の砂糖の原料だった。原産地が東洋だったことから、砂糖はスパイス、または薬と見なされていた。「西ヨーロッパは、初めは砂糖をほとんど薬として用いていた。……われわれの時代のように日常使用する食品ではなかった」(W. E. Mead, The 'English Medieval Feast', London, 1931)。ということは、スパイスや薬と同じくらい高価で貴重品だったということになる。その後、シリア、ロードス島、キプロス島、アレクサンドリア、シチリアなどでも、さとうきびの栽培が始まった。十五世紀の終わり頃の国民一人あたりの砂糖の消費量は一ポンド。一ポンド(〇・四五三六キロ)の砂糖の価格は十八ペンスから三十六ペンスぐらい。エリザベス朝時代になっても、一ポンドの砂糖でレモンが二百四十個も買えたというから、庶民にとっては依然として高嶺の花だったろう。それに、金があるからといって買えるわけでもなかったらしい。十五世紀イギリスの名家、パストン家の女主人マーガレットが家族と交わした書簡は当時を知る貴重な文献となっているが、マーガレットは旅に出た夫に再三「砂糖を買ってきてください」と頼んでいる。富裕な上流階級にとってもなかなか手に入りにくかったのだ。  大航海時代の到来とともに、モロッコやアフリカ北部のバーバリーに加え、西インド諸島のポルトガルやスペインの植民地でも砂糖が産出されるようになり、供給はぐんと増えた。このころから、従来の甘味料の蜂蜜にかわって、砂糖の名がレシピに盛んに顔を出すようになる。砂糖を糸のようにしたスパン・シュガーでできた巨大な砂糖菓子や、ナツメヤシの実やマルメロの砂糖漬けが食卓を飾る。メディチ家のカトリーヌの愛息、フランス王アンリ三世がヴェネツィアを訪問したとき、スパン・シュガーでできたパンや皿やナイフやフォークやテーブルクロスやナプキンでもてなされた。ナプキンはアンリの手のなかで、パリンと割れたという。  モーゼに率いられてエジプトを脱出したイスラエル人たちは、荒野を放浪する長い旅のあいだ「乳」と「蜜」で命をつないだという。このことが物語っているように、蜂蜜は旧約聖書の時代以来、人間の基本食品だった。だが、ここにいたって初めて砂糖にその地位を譲る。シェイクスピアがいうように、「人びとは蜜にあきて、その甘味を嫌うようになった」(『ヘンリー四世第一部』三幕二場)のだろう。ただし、これは、あくまでも王侯貴族や金持ちの商人の話。庶民は、砂糖の代用品になりさがった蜂蜜で相変わらず我慢していた。もちろん、砂糖の消費者番付一位に躍りでたのはエリザベス女王。女王の歯は、虫歯のために真っ黒だった。『恋の骨折り損』のフランスの姫君は、「どうか甘いことばを」とせがまれて、「蜂蜜、ミルク、それに、お砂糖」(五幕二場)と答えている。ナヴァール王の魂を奪ったこの姫君の歯も、真っ黒だったのだろうか。  砂糖を口にできるのは、ほとんどが王侯貴族。したがって、虫歯になるのも王侯貴族。となると、虫歯は一種のステイタス・シンボルになる。人前で歯をほじるのは、行儀の悪いことであるどころか、富裕であることのしるし。事実、爪楊枝は衣装と並んで、その人の社会的地位を示す表徴となった。シェイクスピアの『冬物語』のなかにそれを示す格好の場面がある。老羊飼いと、頭の少々足りないその息子が、宮廷人の衣装を着こんだ行商人のオートリカスと出会い、こんな会話を交わす。 [#ここから2字下げ] 息子[#「息子」はゴシック体] このかたは偉い宮廷人かもしれないよ。 羊飼い[#「羊飼い」はゴシック体] なるほど着ているものが豪勢だ。だが、着かたがさまになっちゃいねえ。 息子[#「息子」はゴシック体] 着かたがふうがわりであればあるほど偉く見えるもんだ。偉い人だよ、あの爪楊枝の使いかたでわかる。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](四幕四場)  野に生きる羊飼い親子は、虫歯とは無縁の存在だ。本当の意味で健康な彼らが、爪楊枝で歯をほじる宮廷人もどきの商人をいかに羨望のまなざしで見ているか。シェイクスピアのアルカディア(牧歌)賛歌はこんなところにも顔を出している。  歯をほじるのは成り金の商人ばかりではない。伯爵夫人の若様だって人目もはばからず歯をほじった。「若様は、長靴の先を見つめて歌を歌う。長靴の折り返しをなおしては歌を歌う。人にものをたずねては歌を歌う。歯をほじっては歌を歌う」(『終わりよければすべてよし』三幕二場)。  当時の爪楊枝は、使い捨てのちゃちなものではなく、だいたいが金属製で、ブローチのように彫刻や宝石のついた凝ったものだった。それを、帽子につけて持ち歩いた。 [#ここから2字下げ] 私生児[#「私生児」はゴシック体] さて、ある漫遊家が  爪楊枝携帯で、おれ様の宴会に陪席するとする。  おれの騎士腹が満腹になると、おれは歯をスースーいわせる。そして、  用事もないのに爪楊枝を使う諸国漫遊家を相手に、うやうやしく問答を始める。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](『ジョン王』一幕一場) 「私生児」とは、かつてリチャード獅子心王によって騎士に叙勲された貴族の庶子で、のちにサー・リチャードとなる人物である。  帽子に爪楊枝をさして諸国を漫遊する粋人の姿も、十六世紀の終わりにはあまり見かけられなくなる。『終わりよければすべてよし』のなかで、伯爵家の家臣がいみじくもこういっている。「処女なんて、おいぼれ宮廷人がかぶる、ブローチや爪楊枝でゴテゴテ飾りつけたみっともない流行遅れの帽子みたいだ」(一幕一場)。このころからブローチを帽子につけるのも、はやらなくなったようだ。  歯の痛みは他人にはわからないという。そのためか、恋の悩みはしばしば歯痛にたとえられた。虫歯の治療は、抜くか、まじないにたよるほか方法がなかったようだ。ステイタス・シンボルとはいえ、錦織りの豪華な衣装と宝石に、歯のない歯ぐきと真っ黒な歯では何とも似合わない。そこで、歯医者が脚光を浴びる。床屋の看板は今でも赤と白、または赤と白と青にきまっている。赤は血の色で、白は包帯の色。イギリスでは、昔は、床屋が外科医と歯科医を兼ねていた。床屋は、虫歯で黒くなった歯を、ローズマリーの葉の灰や、雪花石膏の粉で磨いたり、爪楊枝でほじった。特別に歯を白くするときは、硝酸を塗ったというから、たちまち歯ぐきはボロボロになったことだろう。自前の歯ぐきが使いものにならなくなり、他人の歯ぐきを借用しなければならない場合もあったようだ(ようするに、他人様に食物を噛んでもらうこと)。今は死語になってしまったが、「歯ほじり屋」(toothpicker) なる言葉が一例だけシェイクスピアの作品(『から騒ぎ』二幕一場)に見つかる。  宮廷では、夜ごと、キャンピオンの音楽やジョン・ダウランドのリュートが流れ、エドモンド・スペンサーやサー・フィリップ・シドニーの詩が朗読され、仮面劇にダンスと華やかな宴がくりひろげられた。宝石で身を飾った淑女たちが、きらびやかな衣装を着た宮廷人たちに手を取られてしずしずと大広間に入ってくる。そして、音楽にあわせて優雅にステップを踏む。だが、道化芝居が始まったら、どうなるのだろう。笑いころげて、いっせいにニーッと黒い歯を見せる光景だってしばしば出現したにちがいない。もちろん、女王様だって笑った。例の黒い歯を見せて。貴婦人が笑い顔を見せる肖像画が皆無なのも、虫歯と関係があるのだろうか。羽飾りのついた大きく豪華な扇子が発達したのも、黒い歯を隠すためだったように思えてならない。写真を撮られるときに「チーズ」といってポーズをとれるのも、白く健康な歯を披瀝できればこそ。人はいまや砂糖にあきて、「その甘味を嫌うようになり」、ふたたび、「乳」と「蜜」の流れる理想郷を求めはじめている。荒野を放浪したイスラエル人のように。 [#改ページ]   サラダ泥棒  歴史を彩った人物たちの死にざまは千差万別だ。「馬をくれ、馬を! 馬のかわりにわが王国をくれてやる!」とわめきながら、戦場で斃れる、シェイクスピアのリチャード三世を、何とぶざまなことよと軽蔑するのは勝手だが、馬一頭どころか、たかだか食のために命を落とした王者も少なからずいる。「人はパンのみにて生きるにあらず」と承知してはいても、飢えと直面しては、「武士は食わねど高楊枝」とすましてもおられない。イングランドの王位継承者、ウィリアム征服王の曾孫ユースタスはうなぎ料理のために命を失い、玉座をフイにした。欠地王として名高いジョン王は、りんご酒の飲みすぎと、桃の食べすぎから命を落とした。劇作家のロバート・グリーンは、塩漬けにしんのごちそうで肥満したあと死んだ。フランスでは、カペー王家のルイ六世の後継者フィリップが豚のために早世している。サラダだってときには命取りになる。「馬のかわりに王国をくれてやる」とリチャード三世に絶叫させたシェイクスピアは、ひとりの男に、サラダのために一国をフイにさせてもいる。  時はヘンリー六世(在位一四二二—一四六一年)の御世。ヘンリー六世の父ヘンリー五世は、イギリス人自慢の王だ。ジョン王の時代にフランスから受けた屈辱を見事晴らしてくれたからだ。ヘンリー五世はアザンクールの戦い(一四一五年)で、フランスに勝利し、ジョンが失ったノルマンディーと南フランスの一部を取り戻したばかりでなく、シャルル六世の娘カトリーヌを妻にむかえ、フランス王の王位継承権までも手に入れた。  しかし、英仏の平和もつかのまで、ヘンリー五世がわずか九か月にしかならない王子(ヘンリー六世)を残して他界したことから、ふたたび戦いの火ぶたが切って落とされ、国内では内乱が勃発する。長じてもヘンリー六世は父の叡知や武勇のひとかけらさえ見せず、内乱は打ち続き、貴族のみならず、国王に愛想をつかした民衆もまた立ちあがった。  ケント州の民衆の反乱軍はジャック・ケードなる首領に率いられていた。ケードは戦勝の記録を更新しながら前進し、ついに、ロンドンに攻め入る。ケードはみずからを、王家の血筋を引くモーティマー卿と名のり、「王位簒奪者ヘンリーにかわって即位する」と豪語していたが、その身元は怪しく、反乱軍といってもならず者の集団に近かった。始め、民衆は、「世直し」をかかげるケードを熱狂的に支持した。だが、無差別の暴力と殺戮に明けくれる、ロンドン入りをしてからのケードには愛想をつかす。ついに反乱軍の暴徒も、国王側の甘言に乗せられてケードを見捨てる。  シェイクスピアが依拠した、エドワード・ホールの歴史年代記『ランカスター、ヨーク両家の統一』(一五四八年)によると、その後、ケードは包囲網を突破し、変装してたくみに国内を逃げのびるが、ケントの郷士(騎士に次ぐ身分で、紳士階級に属する)アレグザンダー・アイデンの庭に潜んでいるところを発見され、アイデンの手にかかってあえない最期をとげる。ケードの首は、見せしめのためにロンドン橋に晒された。  シェイクスピア作『ヘンリー六世第二部』、アイデンの庭園の場を見てみよう。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ケード[#「ケード」はゴシック体] 野心なんか糞くらえ! 剣を手にしながら、飢え死にしかかっているおれも糞くらえ! この五日間、森のなかに隠れたまま外をのぞきもしなかった。おれを捕まえようと、このあたり一帯に網が張りめぐらされているからだ。だが、もう我慢できん。腹ペコで死にそうだ。寿命を一千年のばしてやるといわれたって、もう隠れちゃおれん。だから、こうやって煉瓦の壁をよじのぼり、この庭にしのびこんだのだ。食えそうな草か、サラダ用の野菜でもないかな。なにせこの暑さだ、サラダを食えば、胃が冷えて気分がよくなること受けあいだ。「サラダ」とは、おれのためにあるような言葉。「サラダ」には、ヘルメットの意味もある。このヘルメットがなかったら、おれの頭は矛槍で何度ぶち割られていたかわからない。大威張りで行進している最中に喉が乾くと、「サラダ」のヘルメットは一クォート入りの酒盃がわりにもなったっけ。今度もまた、サラダの厄介になり、腹を満たそうか。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](四幕十場) 「サラダ」の原文は、メsalletモ。sallet は salad の異綴りで、「サラダ」のこと。また、sallet には、戦場でかぶる丸い形の頭覆いの意味もある。ヘルメットと訳してみたが、ぴたりといいあててはいない。戦場では、敵の頭蓋骨が酒盃がわりに使われることもあった。サラダを盗みに庭にしのびこんだケードは、サラダ=ヘルメットをかぶって戦った過去の武勇を思いだす。メsalletモ を「葡萄」と訳している翻訳本があるが、意訳としても、その意図はまったく解せない。『オックスフォード大英辞典』にも、「葡萄」の意味は見あたらないし、そもそも、この場面では、サラダでなくてはならないのだ。ヨーロッパの昔話をいくぶんかでも知っている人は、この場面に、グリム童話のかの有名な物語『ラップンツェル』の「サラダ泥棒」のモチーフを思いだすのではないだろうか。  ラップンツェルというのはドイツ語で、サラダ用の野ヂシャのこと。子どもが生まれることになった若い母親は、隣家の庭にはえている野ヂシャが食べたくてたまらなくなる。そこで、夫に少しとってきてくれと頼む。夫は石壁をよじのぼって庭にしのびこみ、野ヂシャを盗む。だが、庭の持ち主に見つかり、盗みの報いに、子が生まれたら持ち主に渡す約束をしてしまう。生まれた子はラップンツェルと名づけられ、隣家にもらわれていく。  日本では、「花泥棒は罪のうちに入らない」と言う。美しい花に惹かれて、つい手折っても、美しいものを愛でる心に免じて、無罪放免となる。中世のヨーロッパに同様のいいまわしがあったかどうかは知らないが、野菜泥棒は罪のうちには入らなかった。金庫に入れられて厳重に管理された高価なスパイス類とはちがい、どこにでもはえる野菜や薬草(両者の区別ははっきりしていなかった)は庶民の食生活必需品だった。それだけに、自分の庭の野菜を人に分け与えることは「よき隣人」の条件のひとつだった。中世の修道士は原則として肉食を禁じられていたから、いきおい、野菜にたよることになる。修道院では自給自足が原則だったが、独立した隠遁者のなかには、他人の庭の野菜で命をつなぐ者もいた。ヘンリー五世の御世よりぐっとさかのぼって十二世紀の話ではあるが、クリスティーナというイギリス人の女性もそのようなひとりだった。だが、「彼女は、しばらくとんと、隣家の庭の野菜を食べなかった。というのも、彼女が、セリ科のチャービルをくださいと頼んだとき、断られたからだった」('The Life of Christina of Markayte', trans. C. H. Talbot, Oxford, 1959)。 『ラップンツェル』で、隣家の庭にしのびこんだ夫にさほど罪悪感はなく、庭の持ち主も、「好きなだけとってもよい」と許可している。ただ、不幸なことに、庭の持ち主は魔女だった。生まれた娘を手放す夫妻にとっては、文字どおり、「タダより高いものはない」ことになった。  さて、ケードの場合は、黙って庭にしのびこんだ無礼を咎められるだけですみはしない。その首には一千マルクの賞金がかけられていたからだ。アイデンはケードの首を打ちとり、ヘンリー六世に差しだして勲爵士に叙せられ、異例の出世をとげる。  今や、「サラダ」の名を冠した歌集が空前のベストセラーになるほどのご時世であるが、中世人は、洗ってドレッシングをかけるだけのサラダを軽蔑しこそすれ、珍重はしなかった。肉はゆでたうえに焙って食卓に出すほどの凝りようで、手をかけたものほど貴族趣味と信じてやまない彼らにとって、サラダなどとるに足らない食べものだった。今でさえ、中世以来相も変わらずローストビーフに忠誠をつくすイギリス人は、ぐちゃぐちゃに煮た野菜を好む。こうして煮た野菜でさえも、敬意を表するに価しなかった。野菜を毛嫌いする傾向は、スティーブン・メネルによると、嗜好的なものというより、文化的なものらしい。「もし、言葉が社会的鋳型で作られるのだとすれば、それは食についても、言えるだろう。……ブルジョワジーは、武家階級の肉食を、まず、量的に、それから、質的に模倣した。反対に、貴族階級は、農民がよく食べる野菜を軽蔑した」(『食卓の歴史』)。この軽蔑が、社会階層をくだりにくだり、統計によると、一九六九年の時点で、調査したフランス人のなかで、なんと六〇パーセント近くもの人が、野菜をもっとも「好きではない」と答えたという。  田舎者だったためなのだろうか、シェイクスピアも野菜に好意を示してはいない。クレオパトラは、シーザーからアントニーへの心変わりを侍女に皮肉られると、「あれは、私のサラダ時代の話。あのころは分別は青くさく、情熱も沸きたたなかったわ」と、けろりとして答えている(『アントニーとクレオパトラ』一幕五場)。ハムレットは旅役者たちに演技指導をしながら、こんなふうにいう。「味をよくしようといって、台詞にサラダを盛る必要はない」(『ハムレット』二幕二場)。『リア王』になると、サラダの格はぐんと落ちて、牛の糞といっしょにされている。狂人を装って野で命をつなぐエドガーは、旅人(実は父のグロスター)に名を名のれといわれて、「サラダのかわりに牛の糞を食う」(三幕四場)あわれなトムだと答えている。サラダさえ食えないほどに落ちぶれたという意味であろう。シェイクスピアがどんなサラダを食べていたのか知らないが、イギリスの料理の本に初めて登場したサラダをご紹介しよう。  リチャード二世の厨房から生まれた『料理の形式』によると、リチャード二世はこんなサラダを食べていたらしい。 [#ここから2字下げ]  材料はパセリ、セージ、ガーリック、エシャロット(ユリ科ネギ属)、タマネギ、ニラネギ、ルリチシャ、ミント、ウィキョウ、クレソン、ヘンルーダ、ローズマリー、スベリヒユ。これらを水に浸して洗う。指でつまんで小さくちぎり、オイルで混ぜ、酢と塩をふって出来上がり。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](Richard Warner, 'Antiquitates Culinariae : Tracts on Culinary Affairs of the Old English', London, 1791)  オイルと酢に塩を混ぜて作る中世のドレッシングは、今のとほとんど変わらない。ドレッシングはよいとしても、野菜とハーブのごちゃまぜサラダの味のほどは想像を絶する。これは王侯貴族のサラダ。庶民はもっとシンプルなものを食べていた。スミレの花弁とタマネギとレタスのサラダなど、食欲がそそられる。ほかに、ヒナギク、タンポポ、バラ、ユリ、ワスレナグサ、ハナヤスリ(シダ科)、キバナスズシロ、赤イラクサ、ハコベなども用いられた。十五世紀のある園芸書には、野菜や薬草類が、なんと八十六種も並べられている。ようするに、野にある草花は、毒性でないかぎり、何でも食べたのだ。サラダが貴族趣味の人に嫌われたのも、これでうなずける。  十字軍遠征や聖地巡礼などで、シチリアなど地中海や東方を訪れた西ヨーロッパ人は、現地の人たちがサラダ好きなのを見て、驚きと軽蔑の念を禁じえなかったようだ。ヘンリー二世の秘書で、一一六八年にシチリアに赴いたブロワのピーターがこんなことばを残している。「かの地の人びとの食の貧しさには驚く。セロリやセリ科のウイキョウなぞを食って生きているのである。健康を害する体液を作るもとだ。これでは、病気になるし、ひいては死をも招く」。  中世では、赤痢の原因のひとつにサラダがあげられていた。十七世紀の初めに出版されたある辞書(Randle Cotgrave, 'Dictionarie', 1611) によると、「生のサラダは健康に悪く、危険だ」。ジャック・ケードのみならず、サラダで命を落とした(と思われた)人はさぞや多かったであろう。 [#改ページ]   愛の妙薬  昔、イタリア北部のロンバルジャという国に、パヴィア生まれの裕福な騎士が住んでいた。ジャニュアリという名のその騎士は大きな城をかまえて豪勢な暮らしをしていたが、六十になるまで妻をめとらず、欲望のおもむくままに女をあさり、肉体の快楽を追い求める生活をしてきた。ところが、どういう風のふきまわしか、六十をすぎて急に結婚を切望するようになり、友人たちを招いて心のうちを告げ、花嫁探しを依頼した。花嫁の条件は、二十歳以下のうら若い乙女であること、ただ一つ。騎士は友人たちにいった。「古老の魚に若い肉という取り合せを食べたいものだ。小かますより大かますのほうが、なんといっても味があることだし、年寄の牛肉より柔かい犢《こうし》の肉のほうが味があるからさ」(『カンタベリ物語』西脇順三郎訳)。  騎士はマイという名の、五月の朝のようにきらきらと輝き、五月の若葉のようにういういしい町娘に目をとめ、夢かなってめでたく結婚という運びになる。聖なる結婚の儀式も盛大な宴も終わり、陽気な客人たちは礼をいいつつ立ちさり、ようやく新郎新婦が床入りをする段になった。ジャニュアリは、十一世紀の医者で強精法に通じていたコンスタンチンが『性交について』であげているあまたの珍奇な媚薬をつねひごろ服用していたが、その夜も、「欲情を高めるために、イポクラスという飲物や、蜂蜜に香料を混じたぶどう酒、香料を混じたイタリー酒を熱くして飲んだ」。そのかいあってか、ジャニュアリは美しいマイを相手に、夜が明けるまで励むことができた。夜が明けると、蜂蜜を入れた上等のワインにパンを浸して食べ、それから声をはりあげて朗らかに歌い、妻に接吻した。このようにして四日目まで、自称月桂樹のように心も体も青々として緑したたる騎士(実際は腰がまがっている)は、美と快感にみちあふれるマイと部屋にとじこもり、結婚の幸せに酔った。  斑点のあるかささぎのようにおしゃべりで、やせこけた首をくねらせ、首筋の皮をたるませながらキイキイ声を出して歌う六十すぎの爺さんを見て、マイがどう思ったかは読者の想像にお任せするとして、ジャニュアリが愛飲したイポクラスという妙薬は、ギリシアの医学者ヒッポクラテス(前四六〇頃—前三七五年頃)によって発明されたと信じられていた。「イポクラス」の名は、妙薬を濾過《ろか》する袖に似た木綿の濾過器が「ヒッポクラテスの袖」という名で呼ばれていたことに由来するという。参考のために作り方をご紹介しよう。 [#2字下げ] よく吟味して選んだ上等のシナモン一クォーター、粉末シナモン半クォーター、上等のショウガ一オンス、ショウガ科のカルダモン一オンス、ニクズクの種六分の一オンス、それにカヤツリグサ少々を混ぜあわせて粉末状にする。これを一クォート(約一・一四リットル)のワイン(赤でも白でもよい)に入れ、さらに砂糖二クォーターを加えて飲む。 [#地付き]('The Fine Art of Food')  カルダモンのかわりにザクロの実やヒマワリの種が用いられることもあったようだ。シナモンやナツメグなど東方産のスパイスや砂糖は、金《きん》よりも高価だった時代のこと、イポクラスを愛飲できたのは王侯貴族か金持ちの商人だけであった。それほど富裕でない人は、ショウガ、シナモン、トウガラシ(Long Pepper)、それに砂糖とはくらべものにならないほど安い蜂蜜をワインに混ぜて飲んだ。イポクラスが「ピーマン」の名で一般に知られていたのは、「トウガラシ」のせいだったのだろうか。  普通のワインは食事の間に出されたが、イポクラスなる特別製のワインは食後、汚れたテーブル・クロスが外されたあと、ウエハースといっしょに出された。食欲増進剤として用いられるときは食事の前に飲んだ。今でいうリキュールのようなものだったのだろう。寒い季節には熱燗にして飲んだ。この妙薬、十八世紀頃までイギリスやフランスで愛飲されたようだ。その頃になると、ピリリとした味はだいぶ抑えられているが。「処方箋」を見てみよう。 [#2字下げ] 上等の白ワイン一クォートに、砂糖一ポンド、シナモンの樹皮一オンス、ニクズク少々、白コショウの実二個、四つ切りレモン一個を混ぜ、しばらく置く。それから、三、四度、濾過器で漉す。じゃこうや竜涎香《りゆうぜんこう》(マッコウクジラの腸でできる香料)をもめんに包んで入れ、香りづけをしてもよい。 [#地付き]('The Fine Art of Food')  上等のワインにスパイスを加えることなど、今から見ればぞっとするような話だが、当時のワインは仕込まれてから数週間で食卓に出され、おそらく非常に酸っぱくて、ドロッとしていたから、飲みやすくおいしくするために各家庭でさまざまな工夫がこらされていた。まずいワインは霜にさらすと味がよくなると信じられていたし、酸っぱいワインには、甘みを出すために熟れた黒ぶどうが加えられた。濁りを除くには、固ゆでの卵の白身と殻を油で揚げ、それを袋に入れて酒樽のなかにつるしたりしたという。 [#挿絵(img/fig19.jpg)]  ジャニュアリが輝かしい戦果をあげた朝に食した、蜂蜜酒に浸したパン、「ワイン・ソップ」についても述べておきたい。 『カンタベリ物語』には、「ワイン・ソップ」の愛好者がもうひとり登場する。快楽をきわめることこそ、人生の目的と信じる金持ちの地主だ。彼は、パンもエールも上等のものばかり貯え、焼いた魚や肉をきらしたためしがなかった。彼の食卓にはありとあらゆる山海の珍味がうず高く積まれ、鳥かごには、しゃこがひしめき、いけすには鯉やおおがますが数知れず泳いでいた。ソースがぴりりときいていなかったり、食器がちゃんと用意されていなかったためしはなかった。「快楽こそ真の完全なる幸福なり」をモットーとする彼もまた、朝には、蜂蜜酒にパンを浸して食べた。  十六世紀に出されたサレルノ派の健康に関する本('Regimen Sanitatis Salerni', trans. Thomas Paynell, London, 1528) によると、(1)ワインに浸したパンは、パンだけで食べるより歯に長くくっついているので、歯がきれいになり、口臭を防ぐ(食べたあと、ジャニュアリはマイに接吻していることに注意)。(2)判断力を鈍らせるもやもやが脳にのぼるのを防ぎ、視力がよくなる(よく見ることができる)。(3)消化を助ける(何日ベッドのなかで過ごしても大丈夫)。(4)余計な栄養分を吸収する(肥満予防)。イポクラスを飲んで「出陣」にそなえたジャニュアリが、朝にはワイン・ソップを食した理由がわかるというものではないか。 [#挿絵(img/fig20.jpg)]  聖書(『マタイによる福音書』一・一九)によると、ヨセフは信仰あつく、「正しい人」だった。だが、中世のヨセフはおしなべて、このキャロルのヨセフのように、マリアの貞節を疑い、苦しんでいる。  ジャニュアリの話とヨセフの話には、(1)庭が舞台になっていること、(2)その庭には果物の木が植えられていること、(3)マイもマリアも身重であり、ともに、老いた夫につきそわれて庭を散歩し、果物を欲しがること、(4)マイもマリアも不実な妻という範疇に置かれていることなど、さまざまな類似点がある。夫の盲目性も問題になっている。ヨセフの場合は実際に目が見えないというわけではないが、マリアが聖霊によって身ごもったことを疑っている点で、信仰の上の盲者といえる。だが、ここには物語の運命を左右する決定的なちがいがある。梨とさくらんぼだ。  梨の木の枯れた小枝は、しばしば火熾しに使われた。民間伝承では、梨は、その木が燃えやすいことから、エロスの象徴となっている。英語の梨(pear) に相当するラテン語の pirum と古仏語の poire には、「杖」あるいは「棒」という意味もある。その形と点火しやすさから、梨は男性性器の象徴。シェイクスピアのマキューショは恋の矢に射られたロミオをからかってこういう。「おお、ロミオ、おまえの恋人が割れ目のあるビワで、おまえが細長い梨であることを祈っている」(『ロミオとジュリエット』二幕一場)。また、梨の形は、女性の子宮や乳房を連想させることから、女性のシンボルにもなっている。「処女も古びてくると、しなびたフランスの梨みたいだ。見た目には悪いし、食っても汁気がない。まったくもってしなびた梨だ」(『終わりよければすべてよし』一幕一場)。『カンタベリ物語』の「粉屋の話」に出てくる淫奔な若妻アリソンは、「梨の若木よりみずみずし」い。こんななぞなぞもあった。「わたしが獲得した器は梨のように丸い。真ん中は湿っていて、毛(hair) にかこまれている。これはなーに」。答えは「目」。  いっぽうの赤いさくらんぼは、キリストの愛と殉教のしるし。イギリスの北の町ウェイクフィールドに伝わる降誕劇(『第二の羊飼いの劇』)の羊飼いたちは、幼な子イエスに、さくらんぼ一房とまりと小鳥の贈り物をする。中世・ルネッサンスの聖画では、赤いさくらんぼが、しばしば幼な子イエスのかたわらに置かれている。そのひとつ、十五世紀のフィレンツェの画家ヴェロッキョの『聖母子』(ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵)でも、聖母子の前に、薔薇といっしょにさくらんぼが三粒転がっている。三という数字が、父と子と聖霊の三位一体をあらわすことはいうまでもない。ちなみに、薔薇は、聖母マリアの表徴。さくらんぼは「豊かな実り」と、マリアの「処女性」をあらわす。したがって、処女はしばしば、さくらんぼとともに語られる。『夏の夜の夢』のディミートリアスは愛するヘレナを「その唇はふくよかに熟している、口づけしあうさくらんぼみたいだ」といっている(三幕二場)し、劇中劇の乙女シスビーは、わが唇は「さくらんぼのよう」といっている(五幕一場)。 [#挿絵(img/fig21.jpg)]  ジャニュアリが六十を過ぎてから結婚を切望したのは、結婚のなかに天国の喜びがあると信じて疑わなかったからだ。ジャニュアリいわく、「そのほかの生活なんざ、豆一粒の価値さえもないものじゃ。夫婦生活というものは、水いらずの、清浄なもので、この世の極楽というものだ」。  ジャニュアリが密やかに結婚のよろこびにひたる梨の木の園は、中央に知恵の木の植えられたエデンの園を思い起こさせる。梨の木の園は、ジャニュアリがこの世で実現した楽園だった。その楽園は、皮肉にも、妻とその愛人に「この世の極楽」を提供する羽目になった。ジャニュアリに失明をもたらしたのは、ほかでもないこの精神の盲目性なのである。  だが、マイが木の上で「極楽の喜び」を味わっている最中に突然ジャニュアリの目が開く。この三角関係を見守っていた妖精の王が、ジャニュアリの目を開いて真実を見させようと決意したからだ。  悲痛な声をあげるジャニュアリにむかって、マイは、あなたの眼を治すには、木の上で男とくんずほぐれつもみあうところを見せるのが一番よいと教えられたからだ、と落ちつきはらっていう。「注意してくださいませ。確かに見たと思っても、ちがっていることがしばしばあるものでございます」。ジャニュアリは大喜びし、マイを何度もかき抱き、接吻する。  ヨセフの場合も、真実を見る機会は外から与えられる。ヨセフがつれない言葉を吐くと、不思議なことに、枝がひとりでに曲がる。マリアは手をのばしてみずみずしいさくらんぼをとり、心ゆくまで味わった。それを見たヨセフはおのれの不信を深く恥じる。  世俗文学の枠組みをかりながら、梨をさくらんぼに置きかえることにより、キリスト教の奇跡の物語に変えてしまうこのしたたかさ。キリスト教を世界宗教に押しあげた秘密のひとつをここに見る思いがする。 [#改ページ]   お菓子とビールとエール  ビールもエールも「作り方に対するさまざまな規則の上では、両方の飲物を�エール�というひとつの統一した項目として考えてもよい」(マドレーヌ・P・ゴスマン『中世の饗宴—ヨーロッパ文化と食文化』)。とはいうものの、両者の社会的地位には歴然とした格差があり、文学作品に登場している場合でも、その格差ゆえに、作品にぴりりとした趣を与えている場合が少なくない。エール(ale) にでくわしたら、なにもかにもビールに翻訳する傾向は嘆かわしいかぎりだ。  ビールをこよなく愛する人が、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世第二部』の次のようなくだりを読んだらどう思うだろう。 [#ここから2字下げ] 王子[#「王子」はゴシック体] ああ、すっかり疲れた。へとへとだ。 ポインズ[#「ポインズ」はゴシック体] へえ。高貴な生まれの人はお疲れあそばすことなんてないと思ってたけど。 王子[#「王子」はゴシック体] あるさ。おれの場合は。それを認めると面目がつぶれることになるかもしれないが。弱いビールをきゅーと一杯飲みたいといったら、卑しい根性がバレちまうかな。 ポインズ[#「ポインズ」はゴシック体] まったく、しもじものことに通じているといっても、王子様ともあろうお方があんな飲みものを覚えるほど、だらしなくなってはなりませんや。 王子[#「王子」はゴシック体] どうも、おれの喉は王子向きではないらしい。ほんとうのところ、今では、あの卑しい飲みもの、弱いビールが忘れられなくなってしまった……。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](二幕二場)  王子とは、のちにイギリス史きっての英邁な王となるヘンリー五世、ハル王子のこと。王子は若き日、ポインズやフォールスタッフといったいかがわしい居酒屋仲間をまわりにはべらせ、放蕩三昧の自堕落な生活をおくった。このときに、追剥ぎなどと一緒に覚えたのがビールの味だった。ちなみに、「弱いビール」の原文は、メsmall beerモ。二日酔いの朝などに好まれた弱いビールのことらしい。  王位継承者ハル王子の好物がビールなら、いっぽうの悪漢フォールスタッフの好物はワイン。フォールスタッフいわく、「もし砂糖入りの白ワインを飲むのが悪ならば、神が悪人を救ってくださるように」。「うなぎの皮」のようにやせた王子とビール、ワイン樽のように太ったフォールスタッフとワイン。飲み物のイメージを使って、王子とフォールスタッフの社会的地位を転倒させていることにご注意。悪態をつきあうビールとワインのコンビは、まるでレントとカーニバルのよう。そして、二人がうろつくチープサイドは、いわば祝祭の広場だ。  ビールとワインは、サラダと、肉が主体のメード・ディッシュの関係に匹敵する。片やいくぶん軽蔑と疑惑の念を持たれ、片や珍重された食べ物だ。十二世紀の歴史家のジラルドゥスが、ケント州のカンタベリの修道僧たちの贅沢な饗宴に招かれて肝をつぶしたことはすでに述べた。ジラルドゥスはいみじくも、続けてこういっている。「飲み物の種類はあまりに多く、イングランド、特にケント州の産物であるビールなど入りこむ余地はなかった。ビールがほかの飲み物と並んだら、さしずめ、メード・ディッシュのなかの野菜のようだろう」。カンタベリの修道僧には嫌われたビールであったが、アーサー王の宮廷における新年のひときわ豪華な食卓のうえには、ワインと並んで置かれていた。「全くすばらしいご馳走の数々、沢山な皿に盛られた夥しい新鮮なたべ物が現われ、人びとの眼前のテイブルの上には、色々なスープで満たされた銀皿を置くべき余地を見出すことが困難なくらいであった。各人めいめい、気前よく供せられるがままに、存分に食事を摂ったが、常に二人ずつに十二の皿と上等のビール、鮮やかな葡萄酒が饗された」(宮田武志訳)。「上等のビール」の原文はメgood beerモ。文字どおり、上等の逸品だったのだろう。  ハル王子は若いときに覚えたビールの味がよほど忘れられなかったとみえる。ヘンリー五世として即位したのちの、一四一八年、英仏百年戦争のなかでもっとも血なまぐさい戦闘として歴史に名を残したアザンクールの戦いの三年後、ふたたびフランスへ進撃を開始し、ルーアンを包囲した。このとき、軍隊の士気を高めるために、ロンドンから大量のビールを取り寄せている。その理由は、値段がエールの半分だったというだけではあるまい。シェイクスピアの『ヘンリー五世』のなかの、ヘンリー王の陣営(ここでは、アザンクールの戦い)も「ビール瓶が林立」(among foaming bottles) している(三幕六場)。 [#挿絵(img/fig22.jpg)]  ハル王子がこよなく愛した「弱いビール」は下賤の飲み物だったらしい。『ヘンリー六世第二部』では、暴徒の首領のジャック・ケードが、自分が天下を取ったら、「弱いビールを飲むやつなんか縛り首にしてやる」(四幕二場)と目の敵にしている。なぜ、これほどまでに蔑まれたのか。  一五四二年に、『健康を保つための食事の習慣』なる書物を書いた医師のアンドリュー・ボードは、ビールは体に悪いと考えていた。「エールは麦芽と水から作られる。酵母をのぞいて、麦芽と水以外のものを混ぜると、せっかくのエールを不純にしてしまう。エールはイギリス人にとっての天与の美酒(natural drink) なのだ。よいエールとは、新鮮で純粋でなければならない。ねばっこかったり、焦げくさかったりしてはならない。おりやかすがあってはならない。……ビールは麦芽とホップと水から作られ、オランダ人の天与の美酒である。最近はイギリスでも好まれているようだが、多くのイギリス人がこれで健康を害している」(Andrew Boorde, 'A Compendious Regiment, or a Dyetary of Health', ed. F. J. Furnivall, London, 1870)。  日本で大流行したドライビールの「ドライ」の意味は、あるビールの会社の宣伝文句によれば、「淡麗・辛口。アルコール度高め。さらりとした飲み口、さっぱりとした後味」。この秘密は芳香苦味剤として使われるホップにある。イギリスで、ホップ入りのビールが盛んに出回るようになるのは、十五世紀初め頃のようだ。ホップはオランダ南西部を含むフランドル地方から輸入された。それまでは、王侯貴族から庶民まで、みなホップぬきのビール、つまり麦芽酒のエールを飲んでいた。  イギリス産のエールには、コムギ、オオムギ、オートムギが使われたが、フランスでは、ライムギやホソムギのみならず、ヒラマメやソラマメ属のヤハズエンドウなどのマメ類も使われていたらしい。ヘンリー三世の御世(一二一六年即位)にすでに、醸造所がロンドンに出現していたとはいうものの、ホップが入りこんできて醸造法が複雑になる十五世紀まで、エールは家庭で醸造されるのが普通だった。エールの醸造は、パンを焼くことと同じく主婦の大事な役目だった。「よいエールとは、新鮮で純粋でなければならない。ねばっこかったり、焦げくさかったりしてはならない。おりやかすがあってはならない」とはいうものの、家庭はもちろんのこと、王侯貴族の食卓にも「あんまりどろどろとしているので、歯で濾さないと喉を通過しない代物がしばしばあらわれた」という。  一四二四年に、エールにホップを加えて販売した業者は、「混ぜ物」を作っているという咎で告訴されることになった。それからほぼ百年たっても事情はたいして変わらない。カトリックを禁止したヘンリー八世は、ついでというわけではないだろうが、ホップの使用を禁止しようとしている。アンドリュー・ボードがエール擁護論を書いたのはこのような時期である。  ようするに、中世からエリザベス朝を通じて、ホップの入ったビールはまるで毒物のように見なされていたのだ。エールにくらべて値段は格段に安く、ハル王子が出入りしていたイーストチープの猪首亭のような、淫売宿まがいの居酒屋や安宿で売られていた。「上等のビール」でないかぎり、王侯貴族や、ワイン好きの修道僧(葡萄の栽培や、ワイン醸造法は修道士の独占だった)がビールに手を出すことなどめったになかった。『カンタベリ物語』のなかの、快楽をきわめることこそ人生の目的と信じる金持ちの地主がたくわえているのも「ビール」ではなくて、「エール」なのだし、ギルドの連中が連れてきている料理人が識別するのは、ロンドンの「ビール」ではなくして「エール」なのだ。  シェイクスピアは、ハル王子に敵対し反乱を企てるホットスパーという暴れん坊に「できれば、から威張り王子をエールに毒を盛って殺してやりたい」(『ヘンリー四世第一部』一幕三場)といわせている。これが王子の大好きなビールなら、もともと安くて毒物みたいに見なされていたのだから、わざわざ毒を盛る必要などなかったのだろう。  ビールとくらべて、ホップなしのビール、つまりエールは、華麗な生涯をまっとうした。まず、値段からいってみよう。シェイクスピアの『冬物語』の行商人オートリカスは客集めに歌を歌う。その一節(四幕三場)を信じれば、白布《シーツ》一枚で一クォート(一リットル余り)のエールが買え、王様のごちそうを食べる気分になれたという。割り引いて考えたとしても、相当な高級品ということになる。  祭りのときは、どんな貧乏人でもビールなどという卑しい物を飲みはしなかった。イギリス人はいわずと知れたヴァイキングの子孫。北欧神話では、エールは神に捧げる聖なる液体だ。そのためか、イギリス人はクリスマスのみならず、収穫祭、聖霊降臨祭、それに結婚式もエールで祝した。祝祭日に教会に行くと、信者はエールをふるまわれた。  中世のチェスター市には、ハルトンというエールの産地があったらしい。十六世紀中頃まで上演された、同市の降誕劇では、羊飼いたちが幼な子イエスを訪れる前祝いに、「ハルトン産のエール」で乾杯している。また、同じころ西ヨークシャーのウェイクフィールド市にはヒーリというエールの産地があった。この地方に伝わる降誕劇の羊飼いたちは、エールを飲みながら草原でクリスマスの祝宴を開いている。「上等のエールには猫さえ口をほぐす」ということわざがあったが、エールを飲んだあと、羊飼いたちも得意の喉を披露している。  祭りのエールにはお菓子がつきものだった。古来より、お菓子は豊穣神に捧げられる聖なる食べ物と見なされてきたが、キリスト教でも、菓子は聖なる生命をもたらすと信じられている。菓子を食べて、菓子に宿る豊穣の神をわがものとした異教の風習の名残りであろうか、キリストの復活を祈って、聖金曜日に「十字形の模様つきパン」を食べる風習は、今でも続いている。クリスマスにも、人びとはお菓子とエールで降誕を祝った。『十二夜』のサー・トービーが、姪のオリビア姫の執事マルヴォーリオを嫌うのは、堅物という理由からだけではない。十二夜(イエスの誕生を祝しに東方から三人の王が贈り物を携えてやってきたことを祝う日)だというのに、マルヴォーリオが「エールもお菓子も許さない」(二幕三場)からなのだ。シェイクスピアの描くヘンリー八世は、宮殿の前に集まる国民にお菓子とエールをふるまい、わが子エリザベスの洗礼式を祝っている(『ヘンリー八世』五幕四場)。  ファッションやライフ・スタイルに流行があるように、飲み物の世界も時勢に左右される。聖なる液体として愛されたエールも、毒物のごときビールに座を譲る日がくる。ホップ入りのビールなら確実に「五日以上」は持つし、それに、ホップの苦みを一度知った喉には、エールの何とものたりないことか。かくして、シェイクスピアが世を去る頃には、とうとうビールがイギリス人の天与の美酒になる。 [#改ページ]   ティファニーで朝食を  人っ子ひとりいない、朝もやにけむるニューヨークの早朝。最高級の宝石店ティファニーのまえに黄色いタクシーが横づけになる。髪をたかく結いあげ、黒の長い手袋に黒いロングドレスといういでたちの優雅な若い女性がしずしずとおりてくる。彼女は、ティファニーのショーウィンドーにゆったりと近づいていく。ウィンドーの前に立ちどまると、手に持った紙袋をあける。袋のなかに手を入れ、パンを取りだし、それを口にくわえたまま、ふたたび袋のなかに手を入れる。こんどは、紙コップに入ったコーヒーを取りだす。高価な宝石をながめながら、パンとコーヒーをかわるがわる口にする。顔にひろがる安堵感と幸福感。それから、彼女はウィンドーに背をむけ、すたすたと歩きだす。映画『ティファニーで朝食を』の冒頭のシーン。コール・ガールとおぼしき、小妖精のようなホリーを演じているのは、若き日のオードリー・ヘップバーン。ナイトクラブで夜をあかすホリーの一日は、ティファニーの朝食から始まる。  世界最高級の宝石店、その前に立つロングドレスの女性、そして、パンと紙コップに入ったコーヒーの朝食。中世史家だって舌をまく絶妙な組み合わせだ。そう、中世の時代、朝食を食べることができたのは、ティファニーで宝石が買えるような王侯貴族だけだった。しかも、彼らが口にしたのは、ホリーの朝食に似ていなくもない、ワイン(ときにはスープ)に浸したパン、ワイン・ソップだった。  むずかしいことをいわせてもらえば、中世には、今でいう朝食は存在しなかった。一日の最初の食事はディナー(dinner)。これが一日で一番大事な食事。太陽が沈んでから、軽い食事のサパー(supper) をとった。サパーの後は、翌日のディナーまで、口に物を入れてはならない。  古代ローマの時制を採用し、日の出から日没までを十二等分して計る不定時法によって生活したヨーロッパ人は、ディナーもローマ人に倣ってヌーンにとった。ディナータイムは、夜明けから九時間後のヌーン(none = noon)。ヌーンはもともと、夜明けから九時間後(nine) に行う礼拝のことであった。つまり、ディナーとは、夜明けとともに始まる労働を終え、一日の無事を神に感謝して祈りを捧げてから食べる食事だったのだ。ヌーンは季節によって正午から午後三時のあいだを変化した。そのうちに、礼拝を正午に行うようになり、ヌーンは「正午」となった。  サパーから翌日のディナーまでの、長い空腹の時間を、中世人は食断ち、つまりファーストと呼んだ。「朝食」にあたるブレックファースト(breakfast) は、ファースト(fast)、つまり食断ちをブレイク(break) する(やめる)ことで、一日の最初の食事を意味した。ヘンリー四世、ヘンリー五世、ヘンリー六世の親子三代につかえたイギリスの宮廷詩人ジョン・リドゲートは、代表作『テーベ包囲』のなかで、最初の食事におもむく旅人たちの様子を、こう描写している。 [#ここから1字下げ]  巡礼たちは……  太陽が東に高くあがると、  食断ち(fast) をやめ(break) て、ディナーをとりに  こぞって「ミサゴ亭」にやってきた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]('The Siege of Thebes', ed. A. Erdmann, London, 1911)  この場面がいみじくも語っているように、「ブレックファースト」とは、ほかならぬディナーのことだったのだ。  断食と仕事から解放されてとる最初の食事、それがディナーだった。それだけに、パンとコーヒー、あるいは、トーストにコーンフレークといった類の軽い食事ではけっしてない。イギリス初の印刷業者ウィリアム・キャクストン(一四四二—一四九一年)は、「われわれは臓物の料理でまず、ファースト(fast) をブレイク(break) しよう」といってから、「臓物」に続く料理をあげている。そのなかには、雄牛の足、豚の足、ニンニク一個などが入っているから、ベッドから食卓に直行してたいらげることができるような代物ではないことがわかる('English and French Dialogues', ed. H. Bradley, London, 1900)。  一日の労働のあと、家族そろってとるディナーは神聖視された。ディナーに招かれることは、家族の一員とみなされること、このうえないもてなしだ。それをすっぽかすことなどもってのほか。家族とてディナータイムに遅れてはならない。シェイクスピアの『間違いの喜劇』では、アンティフォラス(兄)が、妻の用意したディナーに遅れたばかりに、喧嘩は別れ話にまで発展する。  一日二食の食習慣もローマ式だったのだろうか。中世人もまた一日二食を原則とした。教会は、飢えをみたし、健康を維持するためには、一日二食でじゅうぶん。それ以外の食事は贅沢のみならず、罪の源と教えた。そもそも人類の罪と悪は、食い意地の張ったエバがエデンの園で禁断の木の実を食したことから始まったのではなかったか。そう信じてやまないモラリストたちは、大食を強くいましめた。「もろもろの罪は、しかるべき食事の時間以外に食べることから発する。……人は、しかるべき時間の前に食べて罪をおかし、しかるべき時間の後に食べて罪をおかす」('Book of Vices and Virtues', ed. W. Nelson Francis, London, 1942)。 「しかるべき時間の前に食べる」朝食や、「しかるべき時間の後に食べる」夜食は、罪深い行為と見なされていたわけだ。とくに、夜食は目のかたきにされた。ひとつ、夜食は欲望を増長させる温床だ。ふたつ、食事とは、ともに食べることを通して魂を交換しあう神聖なる行為なのであるから、こっそり食べる夜食は、反社会的行為だ。  そんなことをいわれなくとも、常に飢えと隣りあわせで生きていた中世の庶民には、「しかるべき時間」の後や先に、余分な食物を口に入れることなどとてもできなかったろう。『カンタベリ物語』の「女子修道院付司祭の話」に出てくる後家さんにとっても、ワイン・ソップなど望むべくもない。 [#2字下げ] 昔、とある谷あいの森のそばの手狭なあばら屋に、かなり年のいった貧しい後家さんが住んでいました。……寝室もまたいつも乏しい食事をする居間も煤だらけ。ぴりっと利いたソースなど望むべくもなかった。ごちそうが彼女ののどを通ったためしはなかった。あばら家にふさわしい粗食だったのだ。食べ過ぎて病気になることはなかった。控え目な食事と運動、それに心の満足が彼女の健康法のすべてでした。痛風でダンスができないということもなければ、卒中で脳を損ねるということもなかった。ワインは白も赤もたしなまず、食卓にのせられるのはたいがい白か黒、つまり、牛乳と黒いライ麦パンは欠かしたことがなく、ほかにあぶったベーコンと、たまには卵が一、二個つくこともあった。それというのも、いわば彼女は乳しぼり女だったから。 [#地付き](繁尾久訳) 「朝食」が認められることもあった。長時間の食断ちに耐えられない年寄り、子ども、病人などは、ディナーの前に軽い食事をとることが許されていた。また、次のような場合もあった。  十四世紀の中頃、ヨーク大聖堂の建設にあたった石工たちは、夜明けとともに仕事をはじめたが、夜明けが早く訪れる夏のあいだは、ディナーのまえに「軽い食事」をし、冬には、仕事場につく前に軽く食事をした。  一日二食が規則とはいえ、ティファニーのホリーならずとも、中世人だって、朝食のおいしさを知っていた。王侯貴族がこの贅沢を見逃しはしない。それに、貴族といえども、腹がへっては戦はできぬ。『ガウェイン卿と緑の騎士』で、ガウェイン卿が客としてすごす城の城主ベルシラックは、朝早く、狩りにでかける前にミサに参列してから、そそくさと、ソップの「軽い食事」をすませている。おいぼれ騎士、ジャニュアリも、若い花嫁マイと輝かしい一夜をすごした翌朝、ワイン・ソップを食しているし、例の金持ち地主もワイン・ソップの愛好者だ。  いつの世にも、特権に浴することのできる人種はいるものだ。ベルシラックやジャニュアリのような金持ちの貴族にとっては、早朝の「軽い食事」は、いわばステイタス・シンボル。成り金がまず始めること、それは王侯貴族にならって、「しかるべき時間の前に食べる」ことだった。 「朝食」を貴族の特権にしておくのはもったいないと考えたのは、成り金ばかりではない。朝食の貴族趣味は、動物のあいだでも流行していた。粉ひき小屋に陣どるあるネズミ君、ひげについた粉をはらいながら、厳粛な顔をしてこううそぶいている。 [#ここから1字下げ]  こうしていりゃ、まったく愉快な人生さ。  腹がすけば、しかるべき時間の前だろうと、後だろうと、好きなときに食事ができるのだから。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]('Tale of the Frogge and the Mowse, in Lydgateユs Minor Poems', ed. H. N. MacCracken, London, 1933-34)  シェイクスピアの時代には、「お腹が十二時を打つ」といった当時のことわざからもわかるとおり、デイナータイムは今と同じ十二時頃になっていたようだ。『間違いの喜劇』のエドリエーナは、「時計がカンカンと鐘を十二鳴らす」ときに食べられるように、ディナーを用意している。だが、一日二食の原則は、おもてむきは守られていたようだ。それに、「朝食」が罪悪視されていたことも変わらない。召使いのドローミオが、ディナータイムに遅れたアンティフォラスをからかう場面を見てみよう。 [#ここから1字下げ]  あなたの帰りがおそいのは、お腹がすかないため。  お腹がすかないのは、あなたが(ディナーの前に)食断ち(fast) を破った(broke) ため。  だが、食断ちをし、お祈りをしてから食べることを知っているあっしら召使いは、あなたの罪のためにざんげしましょう。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](一幕二場)  りんごでエバを誘惑した悪魔が公言しているように、「いきものは生来、食べ物でもって簡単に陥落するものじゃ」(John Myrc, 'Festial', ed. W. Nelson, London, 1905)。人間は、地獄と「朝食」をじっくりはかりにかけたすえに、後者を選ぶ。魂を地獄に堕とすことになるとしても、「朝食」の魅力には勝てなかったというわけだ。おまけに、貴族趣味を味わえるとあっては一石二鳥。かくして、ブルジョワジーを筆頭に、朝食をとる者が増え、世は一日三食時代へ突入していく。 [#改ページ]   ふとった王様とやせた子ども  ダイエットばやりだ。毎年、ベストセラーのなかにかならずといっていいほど、ダイエットに関する本が含まれている。さしたる事件や記事がないようなときには、ダイエット記事で稼げるとみえて、今年もまた、年があけたら、雑誌にいっせいにダイエット特集が掲載された。正月休みに少し肉づきのよくなったことを、正月ぶとりというのだという。仕事が始まれば、じきに元に戻るものを、ほんの少し体重が増えたからといって大騒ぎする昨今のスリムばやりはほんとうにいただけない。  ある雑誌のキャッチフレーズを見てみよう。「毒出し健康法で四十歳をすぎてウェスト五十九センチ」、「バストを小さくしないでやせる朝・夕食逆転法」、「二十キロ減の突撃ダイエットで成人病も撃退」。ダイエットの方法は掃いて捨てるほどあるから、人目を惹くために、見出しは過激になるいっぽうだ。共通していることは、いかにたくさん食べて、いかにたくさんやせるかということ。考えてみれば、これほど自然に反することもない。本当のことをいえば、やせる秘訣なんて簡単だ。ほんの少し節制すればいいのだ。それを、たくさん食べて、やせようとするから無理をする。ダイエットの本を山と買いこみ、怪しげな「健康食品」に莫大な資金をつぎこむことになる。まさに飽食の時代の珍現象だ。  中世には誰もやせようなどとは考えもしなかった。金持ちに生まれついた幸せ者でないかぎり、ふとることなどできなかったからだ。中世の飢えをもっともドラマティックに、そして鮮明に伝えてくれるのは、メルヘンである。有名なグリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』の物語は、日々の食物に窮した両親が子どもを森に捨てることから始まる。当時の人たちは、この両親を残酷だとか、人でなしだとは思わなかっただろう。食いつめて子どもを食べてしまうことさえあったのだから、森に捨てるのはまだましなほうだ。とにかく万が一にも生きのびる可能性があるのだから。日本にだって、「まびき」といって、子どもをひそかに闇に葬る悪しき風習があった。「おしん」は、われらが父母の時代の話。ついこのあいだのことなのだ。  ヘンゼルとグレーテルが森のなかで出会う魔女は、子どもたちをオーブンで焼いて食べようとする。だが、子どもたちがあまりにやせていて骨ばっているので、脂がのるまで待つことにし、「餌」を与える。 『ジャックと豆の木』の主人公ジャックの一家も食いつめて、財産といえば、老いた牝牛一頭になる。それを売りに家を出るところから、物語は始まる。ジャックがしのびこんだ館の大男は、ジャックの骨を挽いてパンを作り、食べようと考える。妖精の研究で名高いイギリスの民俗学者キャサリン・ブリッグズは、メルヘンや民話に登場するいまわしい人喰い鬼の元祖は、人喰い人種だったのではないかといっている。アフリカでも、フランスでも、ドイツでも、そしてイギリスでも、九世紀、十世紀頃まで人喰いの習慣が広く行われていた。人間の肉だと知らずに食べていたわけではない。飢えて死ぬよりは、人間の肉を食べて生きのびたほうがましだ、と人びとは考えた。日本でも戦争中、ジャングルの奥地などに置きざりにされた兵隊たちが人肉を喰らって生きのびた事実はいまだになまなましい。十字軍遠征隊も、苛酷な道中、人の肉で命をつないだ。  需要があれば、かならず供給が伴う。中世の村や都市の近郊には無法者の一団がうろつき、旅人を襲っては殺し、その肉を料理して市場に出した。そのような肉はマトン、あるいは「二本脚のマトン」と呼ばれたという。十二世紀、大飢饉に襲われた中国北部でも、人肉喰らいが行われたことが知られている。ボヘミアやシレジアやポーランドでは、人肉喰らいは中世の終わりまで続いていたという。赤ずきんとおばあさんを喰らう狼は、人喰い人間のことだったのかもしれない。  飢えとは別の理由で人肉を喰らう場合もあった。たとえば、『白雪姫』にでてくる魔女のお妃は、狩人に、白雪姫を森に連れていって殺し、姫の内臓を持ってくるようにと命じる。お妃は、ひもじくて姫の肉を喰らおうとしたわけではない。世界一美しい白雪姫の内臓を食べることによって、その美しさをわがものにしようとしたのだ。また、敵を喰らうことによって敵を征伐してしまおうとのモチーフは、昔話や民間伝承の重要なテーマとなっている。『長靴をはいた猫』に登場する猫も、姿をねずみに変えた人喰い鬼を食べ、征伐する。  妖精たちの食卓にも人肉は登場する。 [#ここから2字下げ]  万聖節《ハロウマス》の前夜(十月三十一日)、ひとりの若い男が干し草の山の下で眠りにおちる。そして、同じ場所で翌朝目ざめる。眠りにおちているあいだに、妖精の台所で悪夢にも似た経験をし、そのあとで妖精の王の主催する宴会に招かれる。じつは、男は台所で、醜い老婆が切りきざまれ、料理されるのも目撃していた。その料理は宴会の客にふるまわれたのだが、どこでどう変わったのか、テーブルにならんでいたのは、「フルーツ、チキン、七面鳥、バター、作りたてのケーキ、それに、あざやかな赤ワインの入った水晶のグラス」だった。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](キャサリン・ブリッグズ『イギリスの妖精』石井美樹子・山内玲子訳)  中世社会をいろどるのは、宮廷における華麗な宴会風景ばかりではない。ひもじさのあまり、人肉にまで手をのばさなければ生きていけない人びとの地獄絵がそこにある。  中世には、人を喰らう巨人がいるかと思うと、食べ物を際限なく腹につめこむ大男がいる。後者の代表は、何といってもフランソワ・ラブレーが生んだ大食漢ガルガンチュアとパンタグリュエル父子であろう。イギリスには、太鼓腹を突き出してロンドンを歩く、シェイクスピアのフォールスタッフがいる。彼らには、庶民の夢が託されている。つねに飢えと隣りあわせだった時代、庶民の最大の夢は、腹いっぱい食うことだった。肥満した人間こそ、彼らのユートピアだ。キリスト教が大食を七大罪源の一つとしてきびしくいましめたにもかかわらず、人びとはたらふく食べてふとりたいと願った。  ふとっていることは飢えとは無縁であることのゆるぎない証拠。領主たちが、習慣と義務から、残りの食べ物を臣下に分け与えなければならない時代にあっては、領主がふとっているか否かは、民衆にとっては重大な問題だった。したがって、ふとった王様を歓迎しこそすれ、非難することはなかった。フォールスタッフは、やせっぽちの未来の王様、ハル王子を軽蔑していう。「飢え死にしかけた餓鬼野郎。ひょろひょろうなぎの皮のぬけがら野郎」(『ヘンリー四世第一部』二幕四場)。  歴史のなかから、ふとった王様の名はいくらでもあげることができる。典型的なのは、ルイ六世こと肥満王。この王様は一回の食事の量が並の人間の八倍という大食漢だった。晩年には、いったんベッドに体を横たえると、もはやひとりでは起きあがれず、馬はおろか、女性の上にも乗ることができなかったといわれている。しかし、王の伝記を書いたサン・ドニ大修道院長シュジェールからは、理想の王、と最大の賛辞をおくられている。エリザベス一世の父ヘンリー八世も、その肖像画から推測できるとおり、担架で運ばなければすみやかに移動できないほどふとっていた。ふとってはいても活動的な王だった。六人もの妃を持ったことでは悪名高いが、ローマ法王とたもとを分かち、イギリスの近代国家形成への道を切りひらいてもいる。太陽王と呼ばれたルイ十四世は、けたはずれの食欲の持ち主だった。ルイ十五世の愛妾として名高いポンパドール夫人も、国費を浪費して贅沢な生活をおくっただけに、その肖像画から想像できるように、ぽってりしていた。メディチ家のカトリーヌは、その旺盛な食欲と、消化不良のために讃えられたという。ルイ十六世は、マリー・アントワネットとの婚礼(一七七〇年)の祝宴で、消化不良をおこすほど、ごちそうを胃袋につめこんだ。ふとった王様が賛美されたのも、病的なふとりかたは別として、肥満がステイタス・シンボル、威信と考えられていたためである。 [#挿絵(img/fig23.jpg)] 『食卓の歴史』の著者スティーブン・メネルは、ある学者の次のことばを引用して、中世では、健康的なふとりかたは、広く肯定されていたといっている。「食べることは、人を立派にした。農民にとって、痩せた妻は恥辱をもたらした。しかし、まるまる太った妻については、『男は彼女を愛し、彼女が食べる食物をいやいや与えたりはしないだろう』と言われた。男もでっぷりしているべきだった。この理想が、田舎に限られていなかったことは、ルネッサンスの画家たちが、あんなにも大量に描いたすばらしくたっぷりした体格の人間を見れば、一目瞭然だ」。  食料の供給が豊かになるにつれ、洗練された嗜好が発達する。ピラミッドのように積みあげた料理の何十倍も高くつく、小さな皿のこまやかな味の料理がもてはやされるようになる。食べる量が少なくなれば、体も自然にスリムになる。食卓に積まれた肉の量が減るにつれ、男も女も、ほっそりとしたきゃしゃなタイプが好まれるようになる。食料のとぼしい時代には、肥満がよしとされた。だが、食料の豊かな時代には、やせた人こそ賞賛の的だ。ふとっていては出世ができないとまでいわれては、われもわれもと、みなスリムになりたがる。ふとるから、食べるのがこわい。かわって登場したのは、神経性食欲不振症。だが、この不可思議な病気は、第三世界からは一例も報告されていないという。人は、ついに、飽食の時代というユートピアを築きあげた。だが、それでもやっぱり飢えている。 [#改ページ]   あとがき  本書に収められたエッセイのほとんどは、明治屋発行の『嗜好』に、一九八七年から一九九一年にかけて、あしかけ五年間にわたって掲載されたものである。読者からのさまざまな意見を参考にしながら、連載中には紙面の都合で書ききれなかったことや、のちに調べたことなども加え、大幅に手を入れた。  中世の食卓の話を何か書くようにと、『嗜好』の亀澤千恵子編集長にご依頼を受けたとき、専門とする中世・エリザベス朝文学からならヒントが見つかるだろうと、軽い気持ちでお引き受けした。ほんの数回のつもりではじめた連載だった。だが、日本の食文化の重要な一端を担いながら、明治時代から一世紀近く発行されつづけている『嗜好』のこととて、その読者層は、レストラン経営者、プロの料理人、植物学者、ジャーナリスト、主婦と、まことに広範囲におよび、わたしは、毎回、豊かで奥の深いご意見をいただくという法外な恵みに浴した。そのうちに、片手間ではすまされなくなり、文献入手のためにイギリスに渡るなどして、本格的に食卓史を勉強するはめになった。いまや、食物という視点から文化や文学を見つめる面白さのとりこになっている。  マドレーヌ・P・ゴスマンは、その著書『中世の饗宴』のなかで、「食物は文化を知る標識となります」と書いている。文学に描かれた食卓の話や、食物に係わる伝承をたぐってゆくと、思わぬ文化の層が見えてくる。そして、食べるという行為は精神のありように深くかかわることであり、魂の涵養とは不可分の間柄にあることを思い知る。だからこそ、人は、何を食べるかのみならず、いかに食べるかにこだわってきたのだろう。  思えば、読者と編集長に支えられた年月であった。その熱い励ましがなかったら、こんなにも深く食物という分野に踏みこんでいきはしなかったであろう。読者が著者を育てるという事実を身をもって体験したことこそ、何より大きな収穫であった。  最後に、早くから、つたないエッセイに目をとめられ、一冊の書物としての刊行を企画された菊地史彦氏と、編集に携われ、かくも美しい本をお作りくださった筑摩書房の打越由理氏に心からの謝辞を捧げたい。   一九九一年五月 [#地付き]石井 美樹子 [#挿絵(img/fig24.jpg)]   アダムのりんご(文庫版に寄せて)  外交官であり歴史家でもあるアメリカ人の旅行者、ワシントン・アービングが綴った『アルハンブラ物語』は、一八三二年に出版されたが、一世紀半を経た今日でも、さまざまな国のことばに訳されて読みつがれている。アービングがマドリッドからセビリアへ、セビリアを通ってグラナダに着いたのは、一八二九年のことであった。そのころのアルハンブラ宮殿は城砦としての役目はいまだに保っていたが、栄華をほこった華麗な王宮は、素性のわからない人種のすみかとなりはて、廃墟への道を一途にたどっていた。グラナダを発見し、詩的なイマジネーションによって命を吹き込み、その魅力を世界に広く知らしめたのは、アービングであった。『アルハンブラ物語』によって想像力を刺激され、グラナダへと歩を進めた人の数ははかりしれない。  グラナダのあるアンダルシア地方は、スペインのなかでもとくにロマンチックな山岳地帯といわれている。一九九〇年十二月、わたしは、セビーリアからグラナダへバスで旅した。むろん、五時間あまりのバスの旅によって、アービングの困難な旅の足跡を体験することはできない。だが、荒涼としていながら、荘厳さを感じさせる山岳地帯と、茫然とした平原の魅力と孤独感はじゅうぶん味わうことができた。山岳地帯を抜けでると、古いムーア人の首都グラナダに入る。くねくねと曲がりくねった山道をたどってゆくと、丘に出る。アルハンブラ宮殿の赤い塔が深い緑の木立のなかにしっとりと立っていた。鬱蒼とした木立にかこまれた小道を通り、入り口の上に掲げられた聖母マリアの像にむかえられてアルハンブラ宮殿の庭に入った。庭からは、グラナダの市街が一望のもとに見渡せ、はるかかなたに、白銀色に輝く、雪をかぶったシエラ・ネバタの峰が見えた。  時代の移り変わりにもかかわらず、大奥の「ライオンの中庭」だけは、被害をまぬがれてきたようだ。十二頭のライオンは、最後のムーア人の王ボアディブルが去ったときのまま、その口から清らかな水をふき出している。列柱一面に彫られたアラベスク模様は、さわるとこわれそうなほどに繊細で華麗、まるで高級レースのようで、息をのむほど美しい。この旅の目的のひとつは、グラナダのヘネラリフの庭園、セビーリア大聖堂のオレンジのパテオ(中庭)、宮殿アルカサールのオレンジの木々がおい茂る広大な庭を見学することであった。ヘネラリフの庭園でも、オレンジのパテオでも、アルカサールの庭園でも、濃い緑の葉を茂らせた木々に、オレンジが枝もたわわに実っていた。大きさは日本の夏みかんぐらい、皮の色は濃いオレンジ色、甘ずっぱい味がする。  コロンブスがセビーリアやグラナダにあらわれる六十数年ほどまえ、オランダの画家ファン・アイク(一三九〇?—一四四二年)がスペインを旅した。ファン・アイクはそこここで目にしたオレンジや南方の植物を頭のなかに刻みこみ、かの有名なゲントの祭壇画(ゲント、サン・パヴィオン大聖堂)の製作に臨んだ。祭壇画に描かれたエバもまたその影響を受けて、奇妙な果物を手にしている。  中世ヨーロッパの人びとは、エバが食した禁断の木の実をりんごであると理解していた。アダムとエバの楽園追放の場面を描く聖画はたいてい、中央にりんごの木を配している。しかし、北方の果物であるりんごは聖書時代の近東では知られていなかったから、ユダヤ人は知識の木をオリーブの木、または葡萄の木、あるいは、麦の束だと解釈した。ギリシヤ人はいちじくの木であると考えた。  ファン・アイクのゲントの祭壇画では、内側上段右翼パネルに描かれたエバが右手にしているのは、あきらかにりんごではない。色は黄色だが、緑と赤っぽい茶色もまじっている。表面は固く、ごつごつしており、皮はいかにも厚そうだ。ザクロのようでもあり、レモンのようでもあるが、そのどちらもぴったりこない。  ファン・アイクの時代に、「アダムのりんご」という名で知られた柑橘類の果物があった。十七、八世紀の植物図鑑をひらくと、ポム(Pomum)、マルウス(Malus) という名の柑橘類に出会う。これは、英語ではりんごと翻訳され、われわれがいまオレンジと呼ぶ果物は、オランダでは、「中国のりんご」と呼ばれていた。十五世紀において、アラブ人によって西アジアと南アジアを通ってヨーロッパにもたらされたオレンジは最もエキゾチックな果物だった。オレンジがイスラム教徒によって最初に栽培されたのはスペインとポルトガルにおいてであった。  オレンジの香りにみちるヘネラリフの庭園や、セビーリア大聖堂のオレンジのパテオを一見しただけでも、オレンジがスペインやレバント地方からイタリアや南フランスを通ってヨーロッパの国々に広まったことが容易に想像できる。  ファン・アイクは一四二八年から九年にかけて、ブルゴーニュのフィリップ善公からポルトガル王ホアン一世の宮廷に派遣された。フィリップ善公の花嫁候補として、ポルトガル王女イザベルがあげられていた。ファン・アイクは王女の肖像画を描き、王女について主君フィリップに報告した。イザベルの父はホアン一世、母はイギリス王エドワード三世の四男ジョン・オブゴーントの娘フィリッパであった。フィリッパの弟ヘンリーは、リチャード二世をたおしてヘンリー四世としてイギリスに君臨し、当時はその孫ヘンリー六世の時代になっていた。ファン・アイクの描いたイザベル王女の肖像画が威力を発揮したのであろう、イザベルはめでたくも、ヨーロッパ一の富豪で、華麗な文芸・芸術を花開かせたブルゴーニュ公家に嫁した。  十七、八世紀の植物図鑑は、「アダムのりんご」の語源として、Adams-apffel, Malus Adami, Pomun Adami, Malus Assyria, Malus, Limonia, Pomme dユAdam などのことばをあげている。エバがアダムに食べさせた果物であるとの説明がついている図鑑もある。男性ののどぼとけは、アダムが禁断の木の実を飲みこもうとして、のどにつかえたことから、のどぼとけはアダムのりんご (Adamユs apple)と呼ばれている。りんごを飲みこんだ瞬間、アダムが両手で咽をおさえる様子を描いた中世写本もある。  ファン・アイクは外交官としてポルトガルとスペインに赴いた際に、「アダムのりんご」を目にしたのであろう。「アダムのりんご」は、柑橘類に属し、味はすっぱい。「りんご」という呼称、すっぱい味。まさにエバにぴったりの果実ではないか。ファン・アイクが「アダムのりんご」をエバの手に握らせた背景には、このような歴史が隠されていたのである。  六年前に出版された『中世の食卓から』が文庫という形で再版されるのはうれしい。わたしにとっては、はじめての文庫である。ハンドバッグやポケットに入れられて持ち歩かれ、そこここでひもとかれる情景を想像すると、心がうきたつ。  筑摩書房文庫編集部の皆さんに感謝したい。   一九九七年七月二十二日 [#地付き]石井 美樹子 [#挿絵(img/fig25.jpg)] 石井美樹子(いしい・みきこ) 一九四二年生まれ。津田塾大学大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学大学院に学ぶ。神奈川大学教授。著書に『中世演劇の世界』『王妃エレアノール』『聖母マリアの謎』『イギリス中世の女たち』などがある。 本作品は一九九一年九月、筑摩書房より刊行され、一九九七年八月、ちくま文庫に収録された。